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世界歴736年5月14日
「湯浴みをしたのがあだになったな」
美丈夫という言葉がよく似合う青い髪の青年は、一人ごちりながら雨脚の強まる街道を進む。
昨夕にでも湯浴みをしていれば良かったのだが、あまりの眠気に負けてしまったのだ。
それも、浴場のない宿屋で。
おかげで、昼前に宿屋を出て、近所にある湯浴み場へと行く羽目になったのである。
宿屋を出た時は、薄曇という感じだったが、湯浴みを終えて出てくると、外は雨で、せっかく暖まった体が冷えてしまった。
だからと言って、もう一度この近くで宿を取り泊まっていくことはできない。
男の一人旅と言っても、彼は魔術師だ。
他の旅人に比べて生活費以外にも色々と金が掛かるのである。
宿代も馬鹿にならず、野宿も多いというのに、こんな場所で無駄遣いはできない。
「せめて夕方には次の街に着きたいな」
澄み渡った空色の瞳が、憂鬱に曇る。
魔術師はくるぶしまである長い雨具のフードを目深に被りなおし、歩みを速めた。
暫く歩くと、まずい場面にでくわす。
両脇の森が深まった街道の真ん中で、二人の少年が魔物に襲われている。
懸命にナイフで応戦する二人だが、ナイフで魔物が倒せれば、魔術師は商売あがったりだ。
魔物とは悪魔とは違う。だが、獣ではない。そして、霊でもない。
悪意の塊、実体を持った邪悪。そう呼ぶしかないものである。
魔物を倒せるのは魔術師のみだ。一応、悪魔や霊とも戦えるが、そちらは聖職者の本業である。
ともかく、このままでは少年達も死ぬだろうが、魔術師も襲われる危険性がある。
「雨の日は寒いから嫌なんだがな」
小さく溜息を吐くと、左手に持っていた杖をかざし、呪文を唱え始める。
黒い霧に節くれだった細長い腕が三本生えているだけのような魔物は、一番長い腕で小さいほうの少年を掴み取った。
少年というよりは青年と言った方が似合っているだろう、大きいほうの少年が何か怒鳴っている。
しかし、魔術師の耳にはもう、外界の音は届かない。
魔術とは、意識よりも深い所へ自己を繋ぎ、そこから"力"を引き出すものである。
力が放たれるまでの一瞬、身じろぐこともできず、完全に無防備になってしまうので、常人ならば戦士などと組むのが普通だが、魔術師は特に共を連れてはいなかった。
魔術師は意識の底で、暗い淵に手を差し伸べ、力を引き上げた。
雨にも負けない声と共に、魔術師の握り締めた杖の先から、雷霆が幾筋も放たれ、魔物を打ち砕く。
黒い霧のような魔物は霧散し、消え去った。
男は微かな疲労を感じつつ、地面に座り込んでいる青年の側に寄る。
「大丈夫か?」
魔術師の問いかけに青年は答えない。
彼はただ呆然と、目の前に倒れ臥した少年を見つめているだけだ。
魔術師も少年の骸に目をやる。
「こいつ、俺の弟分なんだ。馬鹿で、弱虫で、ヘマばかりする奴だったけど、どこか憎めない奴だったんだ」
青年は自身の被っていた赤い頭巾を取り、それで少年の顔を拭く。
「ブトン兄貴ぃ、とか言ってさ、俺の後をついて回ってさ」
雨脚が強まり、少年の汚れた体が洗われていく。
上半身だけ見れば、眠っているようにしか見えない。
だが、腹から下は魔物に喰われたらしく、肉の一片も無い。
魔術師は込み上げてきたものを抑えきれず、ブトンという名らしい青年の傍らで吐しゃした。
今まで何度か死に際に出会ったことはあるし、魔術を唱えるたび、死が傍らで首をもたげているのを感じる。
だが、目の前にある、現実的で汚らしい死は、魔術師の知る"死"とは異なるものだった。
彼はまだ、人の体から血が流れ、肉が奪われるような死を受け入れられない。
肉体的に自分が傷つくことも、他人が傷つくことにも、慣れてはいないのだ。
胃の中身を出し、いくらか楽になった魔術師を見上げて、ブトンが口を開く。
「助けてくれたことは感謝してる。だけど、あんた、この程度のことで吐くぐらいなら魔術師なんかやめるべきだね」
その言葉に魔術師は何も言い返せず、曖昧な返事を返して別れを告げ、歩き始める。
暫く歩いていも、民家は見えず、諦めて道の脇にある大きな木の下へ入る。
多少でも風雨を避けられるならばマシかと諦めつつ、荷物を開け、中から水筒を取り出してうがいした。
口の中にへばりついた吐しゃ物の味と臭いが気持ち悪かったが仕方ない。
気が落ち着いてから、魔術師は水筒を詰め込み、また歩き始めた。
鷲の鉤爪を模した杖は、魔術を使った直後の為か、暖かく、冷えた体に気持ちよかった。
「ただ魔術が使えれば良かったのにな。大人になるのは本当に辛い」
魔術の不思議に心躍らせ、そこに見える真理を探るため、家中の本を読み漁った子供次代を懐かしむ。
その延長線上にある今は、より多くの知識を得るために、魔導書を求めて旅をしているが、彼に開かれているのは魔術の素晴らしさではなく凶悪さだ。
今もまた、誰かが傷つくことに耐える心を求められた。
何故こんなにも人は、傷つき傷つけることを耐え忍ばねばならないのだろう。
魔術の多くも、魔物やそれ以外の生ある者に対して振るわれる暴力である。人間同士の戦争にも使われている。
魔術師は悲しげな瞳で道の先を見たが、強い雨が全てを隠すように景色を濁していた。
また暫く歩くと、標識が見えてきた。
真新しい標識には、次の街まであとわずかであることが書かれており、魔術師は心躍らせる。
「くよくよしていても仕方ない!」
街に行けば、魔導書を見せてくれると約束した人物の家がある。
その人物のコレクションの素晴らしさは、彼だけではなく世間一般によく知られている。
きっとその中には、求めている知識があるに違いない。
矛盾した気持ちを抱えながらも、やはり知的好奇心には叶わず、魔術師は一層歩幅を広げて歩く。
新しい標識が現れ遠ざかる度に、街がもうすぐそこにあるのだと確信し、やがて白い雨に燻る街が見えると、魔術師は全力で走り出していた。
凍え疲れきった体とは裏腹に、気持ちはただ前へ前へと突き進む。
やがて街を取り囲む壁の四方に設けられた門の一つに辿り着くと、そこには迎えが来ていた。
門番の男が、魔術師の名前を再度確認し、首から提げたメダルを見てとると、青ざめた顔で誰かを呼ぶ。
やってきたのはお仕着せを着た小柄な男で、主人が待っているとだけ告げると、魔術師を向かえの馬車へ案内した。
案内されたのは黒塗りの馬車で、それを牽くのは文句のつけようが無いほど美しい漆黒の馬達だ。
魔術師は当然と言わんばかりの表情で馬車へ乗り込む。
馬車は門から離れると、商業区を過ぎ、中流階級の住宅地を進み、王城の周りを取り囲む高級住宅街へ踏み込むと、その中でも一際目をひく古い邸宅の敷地へと入り、玄関先に止まった。
魔術師が悠然と馬車から降り立つと、中からメイド達が現れもてなす。
屋敷へ入ると、二階の廊下に立つ男に声を掛けられる。
「閣下、ようこそ我が屋敷へ。お待ちしておりました」
この屋敷の主人にして、有名な魔導書コレクターであり、魔術師の尋ね人だ。
外見は若く見えるが、真っ白な髪を見ると、五十は下らないことが窺える。
生粋の貴族として育ったのだろう気品を感じさせる立ち居振る舞いで降りてくると、主人は魔術師に深々と頭を垂れる。
「よせ。私はもはや一介の魔術師に他ならない。この街を統べる貴殿が頭を下げるほどの者ではない。こうして招いていただけて本当に感謝しているのだ」
そう言って魔術師が礼をすると、主人の方は困惑した表情で頭を上げた。
「ところで、今の言葉の後で申し訳ないが、できれば暖をとらせてはもらえまいか。この雨ですっかり体が凍えてしまってな」
魔術師の言葉に主人は頷き、暖まった客間へと通し、茶を用意させる。
一段落した後、魔導書は明日見せてもらうという約束を取り付け、魔術師は主人と他愛も無い話を始めた。
ここまで来て相手の機嫌を損ねるようなことはできないし、社交辞令も大切なことだと知っていたからだ。
魔術師は熱い風呂を浴びてゆっくり眠りたいという気持ちを抑え、夕食の招待を丁重に受けた。
(御題提供元:『第七の月』)
最終更新日 2005/10/08
感 想 魔術師の愛用の武器は、魔術と権力に決定しました。 杖を鈍器にするのは聖職者と被るので諦めました。
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