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世界歴736年5月14日
「神よ、私を貴方の元へお導き下さい」
修道者風の男は握り締めた錫杖に額を当て、彼の神に短く祈りを捧げると、握っていた柄を唐突に放した。
すると地面に立てられた錫杖は、三方に分かれる道の一番右端に向かって倒れる。
「森を進め……、ということですか」
修道者は地面に横たわる錫杖を拾い上げると、もう一度短く祈りを捧げてから歩き出す。
薄い栗色の髪から覗く明るい緑の瞳が、僅かに迷いを浮かべたのは、分かれ道から歩き出して間もなくの事だった。
昼間だというのに薄暗い森の中を伸びる細い街道だが、一本道で、暫く先を見ても人の形は無い。
だが、確かに人の声がする。
意味として捉えられないほど微かな声に、気付かぬ振りをしようと心がけながらも、錫杖を持つ手に力が入る。
不意に風向きが変わり、左手から吹いていた風が右手から吹き始める。
それと同時に、腐敗臭が匂ってきて、修道者は服の袖で鼻を覆い眉根をひそめる。
街道の右手へと視線をやると、森の影に無数の瞳と視線が混じると、瞳の主である山賊らしい男達が出てきた。
彼等の姿は薄汚く、何ヶ月も体を洗っていないのだろうかと思えるほどだ。
修道者は錫杖を両手で握り、今や周囲を取り囲んだ山賊達を見回す。
「坊さん、運が悪かったね。身包みおいてってもらおうか?」
山賊のお頭らしい男の言葉に、構えた錫杖に力を込める。
「いいえ、お断りします。私が手にしている全てのものは、神を探すため私に与えられたものです。お渡しすることはできません」
修道者の言葉に、山賊達は一瞬固まったが、頭の笑い声を筆頭に、声を荒げて笑う。
「おいおい坊さん、あんたここは平気かい? 神様がマジでいると思うのかよ?」
山賊の一人が、自身の頭を指差しながら笑う。
「はい、勿論です。何故なら神こそがこの世をお作りになられたからです。今はお姿を隠されておいでですが、確かにこの世にいらっしゃるはずなのです」
真面目な顔で答える修道者に、山賊のお頭が顔を強張らせる。
「ウザイ。だったら今すぐ空の上の神様んとこに送ってやる!」
山賊のお頭は勢いよく抜刀すると、修道者に切りかかった。
「神よ、愚行をお許し下さい」
修道者は短く神に祈りを捧げながら、慣れた身のこなしで錫杖を振るい、山賊のお頭の鳩尾を突く。
予想外の力に驚く間もなく、山賊のお頭は後ろへ吹き飛ばされ、背後の部下にぶつかり、二人とも倒れてしまう。
誰もが目を疑った。
何せ、どこからどうみても旅の途中らしい若い修道者は、自分達のお頭を倒せるような豪腕の持ち主には見えなかったからだ。
「私は、人を傷つけたくはありません。どうか、道を開けてください」
そう言った修道者の手は震えている。
彼は錫杖を取り落とさないように握り締めながら、心の中で神に祈りを捧げる。
例え相手が敵であっても、彼にとって誰かを傷つけることは恐怖に値する。
罪の意識とは違う、もっと内面的な弱さだと自覚しながらも、いまだに震えはおさまらない。
しかし、盗賊達にとってはそんな修道者の気持ちなど汲み取れるはずもなかった。
「お頭のカタキィィィィ!!」
怒りを露にした山賊の一人が飛び掛ってくる。
修道者は身を翻すと、山賊の背中に錫杖を打ち付ける。
骨の折れる鈍い音と甲高い悲鳴が響く。
「もう一度お願いします。どうか、道を開けてください」
しかし、怒りに顔を歪めた山賊達はその言葉を聞き入れず、一斉に襲い掛かる。
修道者は見た目からは想像もできないほどの怪力で山賊達を蹴散らすが、多勢に無勢だ。
「くっ!!」
真横から体当たりされ、修道者はその場に膝をついた。
すぐさま背後から体を拘束され、目の前に切っ先を突きつけられる。
仕方なくうな垂れると、両手を縄で縛り上げられる。
「てんめぇ、もうゆるさねえ。じっくり殺してやる!」
その言葉に、修道者は何かを決意し、聖書の一説らしき言葉を紡ぐ。
それは彼の信仰する宗教の原書の言葉で、山賊達にはただの一語も意味がわからなかった。
聖歌にも似た響きが終ると同時に、修道者の鞄の中から黒い影が飛び出す。
「な、なんだ!?」
中型犬にも似た黒い獣は、その長い耳を揺らめかせ、顔の前面に埋め込まれた五つの瞳に様々な景色を映している。
神の獣と言うにはあまりにも禍々しい容姿に、山賊達は息を呑む。
湿った風が若葉を浚った。
短い沈黙の後、誰からともなく山賊達は武器をかざし、黒い獣に敵意を向ける。
黒い獣は山賊達を一度ゆっくり見回してから、顔いっぱいに裂けた口を広げ、片っ端から山賊達の喉を引きちぎった。
瞬く間に山賊達は咬み殺され、もはや修道者と獣以外に動く者はなくなる。
獣は己に殺意を向けるものがいなくなったことを感じたのか、大きく開いた口を閉じて修道者に近寄り、彼の自由を奪っていた縄を噛み切ると、その腕に勢いよく飛び込んだ。
「じゃれるなよ、ビブル」
修道者は獣の頭を撫でながら、辛そうな笑みを浮かべる。
「助けてくれてありがとう。また、君の力を借りちゃったね。私はまだまだ修行が足りないな」
ビブルと呼ばれた黒い獣は長い舌で彼の頬を豪快に舐める。
修道者は己を励まそうとするかのように懸命に舐めてくるビブルに微笑むと、原書の言葉を唱える。
ビブルは名残惜しそうに五つの瞳を瞬かせながら、ゆっくりと形を変え、やがて一冊の黒い経典となった。
黒い革表紙には、頑固な染みが幾重にも重なり、どのページも日に焼けて黄ばんでいる。
修道者は真っ黒な聖書を鞄の中へ戻すと、近くに転がっていた錫杖を拾い上げ、額へと押し当てる。
「神よ、貴方の子が死の世界へ続く道で迷わないよう、その道に灯りを燈してください」
死した山賊達に祈りを捧げた修道者は、錫杖を片手に、また歩き出す。
暫く歩くと、街道は広がり、両脇に旅人相手の茶屋や民家がぽつりぽつりと見え始めた。
彼は住民らしい男に体を洗える場所を尋ねる。
男は近くの教会を教えてくれたが、修道者は旅人が利用する湯浴み場を再度尋ねた。
不審そうな顔をしながらも、信心深いらしい男は、近くにある湯浴み場を教えて別れを告げる。
「神の御名において良い旅でありますように」
男の言葉に苦笑しながら、修道者も礼をして歩き出す。
確かに、彼の姿は、この世界で大きな権力を持つ宗教のソレと同じだったのだが、彼の聖書はその前身に当たるものだ。
例え流れが等しく、同じ名前の神を持っていたとしても、彼と先ほどの男の信じる神の本質は異なる。
いや、本質は同じなのかもしれないが、二人の捉え方は全く異なる。
「生み出す神と、善なる神……ですか」
修道者は再度苦笑すると、教わった湯浴み場へ入る。
入り口で金を払い、脱衣所へ行ったが、昼間ということもあって人が少なく、ホッと息を吐く。
「貸しきり状態ですね。なんだか嬉しいな」
「それは残念だったな。私も入るところだ」
一人笑っていたところに、後ろから声を掛けられて修道者は驚き振り返る。
背後にいたのは、細身の魔術師で、長い蒼い髪を持った空色の瞳の美丈夫だ。
「これは失礼しました。ヴェリテさん」
修道者の言葉にヴェリテと呼ばれた魔術師は目を細める。
「私の名前がわかるとは、並の坊主というわけではないな? 貴殿は何者だ?」
どんなものにも名前がある。
だが、魔術師や聖職者のように、魔力なり聖なる力なりがある者は、お互いの名前を読み取ることができる。
つまり、相手の名前を読めるということは、それだけ力があり、その使い方を理解しているということだ。
ただの修道者では、まずありえないことである。
とはいえ、この修道者としては、先ほど驚かされたことへのちょっとした嫌がらせのつもりで、事を荒げるつもりはなかったのだ。
「私は神を捜す旅をしている、ただの修道者ですよ」
修道者はそう言って誤魔化そうと笑うが、ヴェリテは笑わない。
二人がお互いに身動きができなくなると、脱衣所の上の方から声が響く。
「お坊さん、魔術師さん、早く入らないと大変な目にあうべ。今にも雨が降りそうだ。」
番台の老人の言葉に、ヴェリテが窓へ視線を移すと、その隙を見て修道者はすぐさま着替え始める。
ヴェリテも追求を諦めたらしく、仕方なく着替えを始めた。
その様子を横目で見た修道者は、ホッとした笑みを浮かべて浴場へ入る。
これ以上余計な詮索を受ければ、彼は風呂に入り損ねる可能性さえあったからだ。
窓の外で、今にも雨が降りそうな空が笑った。
(御題提供元:『第七の月』)
最終更新日 2005/10/08
感 想 愛用の武器ということで、聖典たるビブルを出しました。 聖書は聖職者の武器だし、獣に化けて人を襲うのも武器かと。 実は40本の物語の一話目がここだったりします。
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