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その日も男は盛大な溜息を吐きながら歩いていた。
陰気な顔と良い、世の中の不幸を背負ったような背中と良い、歩いているだけで不幸そうな男である。
彼がどうしてそうなってしまったのかを、今や町の殆どの人間が知っていたが、誰もどうすることもできなかった。
今日も男は本屋の店員として、仕事自体はそつなくこなすと、「溜息ばかり吐くなこっちまで陰気な気分になる」と店長に言われて、追い出されるような形で店を後にしたばかりだ。
また、どうせ明日も同じことで文句を言われるに違いなかった。
そう思うと、もう本当にどうしようもなく辛くて、またまた陰気な溜息を一つ吐いてしまうのである。
そういう時には、家へ帰るのも躊躇われたので、気分転換にミルクティーを飲みにある店へ寄るのがロンの小さな救いだ。
今日もまた、人気の無い路地を曲がってたどり着いた、それほど大きくもない店の扉を開ける。
凛とした鈴の音が店内に響く。二重に。
こんなベルの音だっただろうかと思いながら見回すと、店内はいつも通りとても明るいのだが、普段木製のテーブル席が置かれている店の中央には、透明なテーブルが置かれており、それを挟むように大きなソファと長椅子があった。
どうも内装を変えたらしい。
男はそう思いながら更に見渡して、歩幅にして二、三歩離れた場所に立っている少年と目があって驚く。いつの間にそこへ立ったのだろうか。
もしかしたら、男が来る前にやってきていたのかもしれないが、尋ねる気はなかった。
ふと、店の中央から声が響いた。
「いらっしゃい。あたしはニア・オア・クレア。ここのお店番をしてるわ。さぁ、こっちへいらっしゃいな」
見ると、キツイ感じの美少女が、先ほどのソファーに悠々と腰掛けている。
頭の高い位置で左右に縛った黒い髪は巻き毛で、ニアの纏う白を基調としたドレスが、童話に出てくるお姫様を連想させた。
だが、相手はどう見ても十代前半の女の子で、店主を務める女性ではない。もしかしたら、店主の親戚なのかもしれないが、それにしてはあまりにも似ていない。
少年はどうするのだろうと思って振り向くと、またもお互いに目が合って、どちらともなく頷き歩き出す。
ロンは少女に対するように置かれた長椅子の左側へと座った。
見れば顔が綺麗なだけに、どうも不機嫌なニアはとても怖く見える。さっきからジロジロ見ていたのが悪かっただろうか。
ロンが悔やみながら唇の端を噛んでいると、ニアが口を開く。
「いちおう名前を聞いておいてあげる。あなたの名前は?」
鷹揚な態度で尋ねられて、長椅子の反対の端に座った少年が目を瞬かせる。
「俺ですか?」
「そう、ぼやぼや顔のあなたよ」
その言葉に15歳ぐらいだろう少年はムッとしたようだったが、ニアはもっとムッとした顔をする。
もしかしたら、さっきから怒っているのはこの少年に対してなのかもしれないと思い、ロンは少しホッとした。
「月詠 鏡です」
「鏡ちゃんね」
ツクヨミ=キョウか。変わった名前だな。
「溜息ばっかり吐いてて煩いわね。あなたの名前は?」
突然指差されたので、ロンは少し驚いたが、それよりもつい先ほど働き先で言われたことを繰り返されて腹が立った。
「陰気臭い溜息を吐いて悪かったね。僕の名前はロン=ビュンジだよ。どうせそこらへんに転がってるたいしたことのない名前だよ」
言ってまたも盛大に溜息を吐くと、ニアが睨んできたので、どうも怒ってるのはロンに対してなのかもしれない。
しかし、そんなに怒られて煙たがられても、やはりロンにはどうしようもない。
何せ、自分でも嫌になるこのマイナス思考は、魔女に掛けられた魔法なのだから。
どうも魔女というのは、人間界に降りてくると、一年に一回誰かに魔法をかけなければいけないらしく、ロンもこれの被害者になったのだ。
しかもこの掟は結構いい加減で、魔法をかけた当人でも、どんな魔法をかけたのかは効果が出るまでわからないし、魔法を解くこともできないのである。
「ロンちゃんね」
今年23になったロンに向かってロンちゃんと呼ぶのは、母親と、魔法を掛けた魔女ぐらいだ。それを思い出すとなんだか腹が立つ。
「僕は男なんですけどね。せめて、ロン君あたりにしといてもらいたいですけど、僕にはそういうことを言う発言権さえないんでしょうかね」
「さぁ?」
ぶっきらぼうに答えられて、ロンは更に腹が立った。人を馬鹿にしているとしか思えなかったからだ。
立ち上がって怒鳴ろうと腰を浮かす。
「なんだって……」
「ところで、ここはどこなんですか?」
そう尋ねたのは鏡だった。言葉を遮られたロンは気分が悪くなって座りなおす。
ニアの言葉に顔を赤くして立ち上がろうとしていた直後だったので、ロンは出鼻を挫かれたような顔をしながら、座りなおして別の言葉を口にする。
「どうせ、あの魔女の悪戯なんでしょう。今年は自分の店にまで魔法をかけたのかな。だいぶ若返ってるけど、ニアさんだっけ? 貴方本当は魔女なんじゃないですか?」
魔女なら、若返りの魔法ぐらい知ってるだろう。もしかしたら、こう見えて実はここの女店長かもしれない。
そう、ロンがミルクティーを飲みに来る店は、ロンにこんなやっかいな魔法を掛けた魔女の営む店なのである。
最初は魔法を解いてもらいたくて来たのだが、解けないといわれて気落ちしたロンに出してくれたミルクティーの美味しさに惚れて通い詰めているのである。
「ここは異世界よ。鏡ちゃんの入ったお店でも、ロンちゃんの入ったお店でもない。帰ることはできるけど、帰り道はただいまお散歩中」
「あぁ、とうとう魔女の国に連れてかれて、すっかり騙されて殺されてしまうんだ!!」
異世界はあれば楽しいが、どう見てもここは魔女のお店でしかない。振り向けば、確かに出入り口も無い。
となれば、ここはもう人間界ではないに違いないのだ。
魔法をかけられて魔女と出会ってしまったばかりにこんな不幸が襲ってくるのかと思うと、ロンは辛くて大声で泣いた。
すると、長椅子の端に座った鏡が軽蔑するような声で言う。
「確かに馬鹿にしたような喋り方は魔女みたいだけど、いちいち泣き喚かないでください。耳が痛くなります」
耳が痛くなるぐらいなら良いじゃないか、僕なんて心が始終重くて痛くて辛いんだと叫びたかったが、叫ぶ前にニアが口を開き、喋る機会を奪われてしまう。
「鏡ちゃん、あなたのこと気に入ったわ! 星座占いをしてあげましょう。あなたはそうねぇ……瀕死の五つ目座? それとも嘆きの猫ヒゲ座? わかった、笑う額座ね!」
笑う額座ということは、額に口でもついてるのだろうか。関係ないことを考えて笑いかけたので、ロンは頭を振る。
ニアは魔女だ。どうせわざとこんなことを言っているに違いない。笑わせて安心させようとしているに違いない。
「なんですか……それは。俺の星座は山羊座ですよ」
「あら、それじゃあダメね。あたしの星座占いとは違うんじゃできないわ。あ、それなら血液型占いをしてあげる! ドロドロ熔岩型? サラサラ大洪水型? ネバネバ泥沼型?」
ドロドロ溶岩型の人は体が燃えてるのだろうかと考えて、またも笑いそうになってロンは頭を振る。
またも魔女の作戦に引っ掛かるところだった!
「えっと、俺の血液型はRh(+)のO型です」
「これも違うの? あなたダメね。あたしの占いと相性が悪いみたい」
残念そうに俯いたニアは、ふと何かに思い当たったらしく顔を上げた。
「そうだ、あたしのとっておき、顔占いをしてあげる。あら、あなた、額に第三の目がないわ! この占いには、第三の目と他の目との間の皺や黒子が大きく関係してるって言うのに!」
「普通の人間には目は二つですから」
額を押さえて溜息を吐いた鏡の姿があまりにも哀れで、なおかつ魔女にこれほど振り回されている姿に、ロンは同情を禁じえなかった。
「じゃあ、占いはやめ」
そう言って溜息を吐き、ニアが頭上を見上げる。
吊られて頭上を見たロンは驚いた。何せ、そこには鯨が浮かんでいたのだから仕方ない。
たぶん、魔法で浮いているのだろう。普段はないものだし、鯨をマジマジと見る機会もなかったので、ロンは天井いっぱいに浮かぶ鯨の姿に見入った。
「大きな鯨だな……まるで生きてるみたいだ」
ロンの呟きに、鏡も呟く。
「竜だろう。よく出来ているが」
ロンは鯨を見ながら驚く。あれはどう見たって鯨だ。黒いし、ヒゲもあるし、ヒレもある。
もしかしたら鏡には本当に竜に見えているのかもしれないが、やっぱりプカプカと浮かぶ模型は鯨にしか見えない。
「あれは鯨だって」
反論すると、鏡は溜息を吐いて沈黙してしまった。ロンもこれは譲れなかったので、溜息を吐いて沈黙した。
すると、ニアが口を開く。
「何か食べる? 一応、ここは食事処みたいなものだし。今日はあたしが奢ってあげましょう」
いわれて、鯨からニアへと視線を移す。
働いているとはいえ裕福とまでは言えないロンである。奢ってもらえるのは嬉しいが、もしかしたら裏があるのかもしれない。
でも、本当に奢ってもらえるなら、魔女の入れるミルクティーと、それから夕食代わりに何か暖かい食べ物を。できれば、食後のオヤツに木苺のケーキも出てきたら文句はない。
「良いんですか? まぁ、どうせ僕は見かけ通りそんな大金持ちってわけじゃないですし、貧相に見えるでしょうが……」
「確かに少し腹が減りました。できればお茶と何か……」
言い終える前に、ニアが謎の呪文を唱えた。
『<――私の注文通りに、そのままに、有形の男達が思い浮かべるままに、そのままに、有形の男達の願通りに、そのままに、私の言葉の通りに、そのままに――>』
ニアの白い手の中から四つ折りの紙が現れる。どうやら魔法のようだ。いや、でも、これぐらいなら手品師もできるだろうか。
思いながら見ていると、ニアがその紙を傍らに置かれた竜の置物の前に差し出す。
小さいわりには、なんだか近寄りがたいその竜は、急に口を開いて紙を咥えると、店の奥へと飛んで行ってしまった。
「竜の置物が動いた!?」
そこに残された品の良い台座から、どう見てもあれは生きて居なかったとしか思えない。
「小鳥だろう。置物のように見えたのは確かだが」
ロンは驚いて鏡を見る。この少年は真顔で小鳥だと言ったのだ。
「いいや、竜だった。間違いなく竜だった!」
「しかし……」
「うるさぁぁぁぁぁぁぁぁいいいいい!! いい加減にしろぉぉぉぉぉっ!!」
バシンッとテーブルを叩く音に驚いて振り返ると、ニアが立ち上がってテーブルを叩いていた。
「あのねぇ、あんた達いちいち煩いのよ。二人とも別の世界から来たんだし、別のものに見えてもおかしくないでしょうが!?」
本当に別の世界から来たなら、違うように見えるのかもしれない。
それはとても不思議な話だが、そうだったらかなり面白いに違いない。
何せ、同じ形のものを見て、別々の名前を答えるのだから。
またも沈黙が続いたので、ニアが疲れたような顔で口を開く。
「ところで、あなた達、なんだかとっても不幸そうなそうでもないような微妙な感じなんだけど。どっちかはっきりしてくれない?」
「見ればわかるだろう! 僕は不幸なんだよ! 魔法をかけられてね!」
こういう神経を逆撫でするような言葉に、つい怒鳴ってしまうのも、魔法をかけられてからのロンの癖だった。
昔はもう少し気が長くて、むしろのんびりしすぎるし鈍感だとさえ言われたこともあったが、今は逆に神経質のレッテルが貼られている。
「魔法?」
ニアが不思議そうに聞き返してきたので、ロンは驚いて聞き返してしまう。
「魔女じゃないの?」
「……違うわね」
異世界なのだから、魔女という呼び名じゃないのかもしれない。いや、本当に魔女じゃないのかもしれない。
こちらでは、女の子どころか老若男女が魔法を使えるとかそういう可能性だってある。
となると、ニアはやっぱり普通の女の子なのだろう。
ということは、ロンの身に起きた不幸なんてちっとも理解しない、我侭な少女なんだろう。
だいたい、女の子というのは皆そうで、ロンがあまりに喚き散らすと、まるで気味の悪いものを見るような目で蔑むのだ。何も知らないくせに。
「じゃあ、君みたいに小さな女の子にはわからないかもしれないけど、僕は魔女に魔法をかけられたんだ。なんでもかんでも悪くしか考えられないようにね。その魔法の副作用に違いないけど、友達連中も次第に減ってきて、家族にまで煙たがられて……」
「まぁ、そんな嘆いてばっかりの性格の相手と付き合ってたら、誰だって嫌になるわよね」
話し終わる前に、ニアがざっくり切り捨てる。
「君まで僕を馬鹿にするのか! やっぱり君は魔女なんじゃないか!?」
「なんとでも言いなさいな。それより、せっかく美味しそうな食事がきて、あたしがご馳走してあげるって言ってるんだから、ありがたく食べなさい」
言って戻ってきた竜の首を撫でながらニアが言う。
竜の後を追うようにやってきた店員らしい男が、カートに載せた料理をテーブルに載せて行く。
ロンは怒るのも忘れて口を呆然と開いてしまった。
目の前には、自分が食べたいと思った料理が並べられていたのだが、それより問題は店員の首である。
真っ白というよりも、ややくすんだ色の羊には角が生えている。家畜ではないらしい。というか、首から下は人間なので、被り物なのかもしれない。
「羊……」
「羊だな……」
珍しく意見が一致したことに、ロンは驚いて鏡を見た。
「えぇ、この仔は羊さんよ」
「やっぱり羊なんだ。ってか、なんで羊?」
その言葉に、羊がちらりとこちらを見た気がした。気がしただけで違うかもしれない。
「趣味、なんだろ」
ロンの呟きに鏡が答える。
「むしろあたしの趣味よ。羊って可愛いじゃない。あ、ちなみにこの羊も、天井の仔も、みんなあたしの従者よ」
正しい解答をするニアに、羊と呼ばれた店員が軽く礼をし、天井の鯨もわずかに身じろぎした。
「動いたっ!?」
すっかり模型だと思っていただけに、ゆっくりと尾を動かした鯨に驚いてしまう。
「動力は一体……」
「それとこの仔は、従者と一括りにしないでね。あたしのパッセンジャーだから」
特別贔屓しているらしい竜は、キュルルルと可愛く鳴いた。女の子なのかもしれない。
どうも質問に答える気がなさそうなニアが紅茶の入ったカップを傾けたので、ロンもそれに倣うようにミルクティーを飲む。
(こ、この味はっ)
一口目で目を見開く。二口目で眉間に皺が寄る。三口目でロンの陰気な顔が明るくなる。最後の一口を飲んだロンは、まるで別人のように顔を輝かせて言った。
「こ、これはっ、僕に魔法をかけた魔女の入れてくれるミルクティー!!」
「魔法をかけた魔女の入れるお茶を飲むのか? 勇気があるというか、なんというか」
わけがわからないという風で鏡が突っこむ。
「それとこれとは話は別。このミルクティーは手放しに美味しいんだよ! って、キョウさん、そんなにひかないでください!! あ、わかったぞ!! 男のくせに甘いミルクティーが美味しいとか思ってる僕を馬鹿にしてるんだな!?」
確かに魔女は魔法をかけた相手だったが、とにかくこのミルクティーの美味しさは格別だ。
彼女が魔法を掛けた相手でなかったら惚れていたかもしれない。それぐらいに美味しいのだから。
どうして彼女は僕に魔法をかけたのだろう。
「…………重傷だな」
「本当ね」
溜息を吐いた鏡に、ニアも小さく頷いて鏡へと視線を移す。
「それで、鏡ちゃんの不幸は?」
突然、話が切り替えられたので、鏡は少し慌てたようだが、僅かに考えてから答える。
「不幸と言えば不幸なんでしょうか? よくわかりません」
その顔は、不幸というより、最初の通りぼけっとしていた。
「まぁ話してみなさいよ。それを決めるのはあなたじゃないんだから」
「? 意味がわかりませんが、話しましょう。こうしておごってもらってるわけですし」
「ありがとう」
そう言って笑ったニアの顔に、ロンはドキリとした。少女とは思えないほど艶やかな笑みが綺麗だった。
「……俺の住んでる町はとても平和で、なんというか、嵐の目の中みたいな感じなんです」
「嵐の目? じゃあ、周りは平和じゃないっていうのかい?」
平和じゃない中に町がぽつんとある様子を思い描いて、ロンは首を傾げる。
どちらかというと、争いがあったり、雰囲気の悪い街というのは、おおよそその周辺もそれほど良くないものだと思っていたからだ。
と言っても、ロンは旅好きというわけでもないので、自分の住んでいる町の外のことなど殆ど知らないのだが。
「そうです。世界中に争いが起きていて、こうしている間にも沢山の人が殺されているんです」
ロンの言葉に頷く鏡。
戦争や争いというのは、ロンの世界にもいくらでもある。歴史を遡れば世界大戦の部類もなくはない。
だが、ほとんどの争いは、どちからというと国や地域ごとの内戦や衝突程度で、今まさに世界中に戦渦が広がるという光景はどうしても思い浮かばなかった。
あまりにも規模が大きすぎる。そんなことをしていたら、一体誰が売れてる外国の本を輸入して翻訳してくれるというのだろう。
「そんな馬鹿なっ」
「黙って聞きなさいな」
更に言葉を続けようとしたロンを止めるニア。その冷たい瞳に、ロンは押し黙る。
「俺は、そういう世界で、幸せな家庭に暮らしています。でも、本当はすぐ先の町や別の国では、俺と同じぐらいの歳の子どもが殺されたり、殺しをしているっていう事実があるんです。俺の生活が手放しに裕福で幸福ってわけでもないですけど、そういう人たちから見ればよほど幸せじゃないですか。そう思うと、俺はたまらなくなって、自分が幸せだと感じる資格がないように思ってしまうんです」
「戦争に巻き込まれてないなら幸福だと思って良いじゃないかっ」
話し終えたところへ、ロンが口を挟むと、鏡は小さく笑った。
「そうかもしれません。でも、できない。それが俺の不幸です」
小さく笑ってそれが不幸だという鏡が許せなかった。どう聞いても、鏡の方が身の危険が差し迫っているというのに、余裕があるのだ。
ニアの小さな溜息を聞こえた。
「なんていうか、こういう言葉知ってる?」
ニアを振り返る。
「他人の振り見て我が振りなおさず。今のあなた達にぴったりでしょ?」
「僕はどんなに幸せな場所にいても、不幸だとしか思えないようになったんだから、僕の方が不幸に決まってるじゃないか!!」
小首を傾げて言われた言葉に、ロンは自分の胸を叩いて、演技臭いぐらいに身の不幸を嘆く。すると、鏡が傍らで突っこむ。
「じゃあ、俺は不幸じゃないっていうのか?」
その瞳は静かだが、決して譲ろうとはしない頑固さがある。
「そうじゃないけど、僕よりは不幸じゃないよ!!」
そう思いたかった。
「馬っ鹿じゃない。そんなくだらない理由で不幸だと喚き散らして、二人ともみっともないと思わないの?」
言われて、ロンは更に顔を赤らめたが、逆に口調は押さえて尋ねた。
「じゃあ、僕より不幸な奴がいるってのかい? それとも、キョウ君の方が不幸だというのかい?」
「それは、俺も聞きたいな」
鏡がロンを睨みながら頷く。
「あんた達よりも不幸な奴がいるか、ですって? じゃあ端から順に教えてあげるわ。
あの胡散臭い絵、額縁が汚れてるでしょ? あれは、ある女に恋した少年が、実の兄とその女が婚約すると知って、兄を殺してしまった時に出来た跡。その後の少年は獄中で自殺してしまったわ」
確かに、古い額縁には赤黒い染みが斑についてる。
それを見て、ロンの顔色は暗くなる。
この性格になってから、恋人が他の男のもとへ行ってしまったのだ。
向こうから振ってくれたなら、あるいは自分から身を引いたなら良かったのだが、彼女が今の彼氏とデートしているところに、仕事で本の配達をしていたロンが鉢合わせたのである。最悪だった。
彼女はロンに何も言わず、ロンはいつものように怒鳴り散らし、そして見知らぬ男に追い払われてしまった。それから彼女と一切の連絡はとっていない。
不幸中の幸いなのかもしれない、ロンがこの絵の少年のように、相手の男に殴りかかる勇気がなかったことは。
「あの変な器は、戦争で恋人を亡くし、仲間に裏切られた少年の心で、棺にみせた木箱に入ってたそうよ。男はその後、誰も信じることなく、戦場を駆ける人殺しになったそうよ」
ふと顔を上げると、鏡の顔が曇っていた。理由はわからないが、たぶん、戦争の関係なのだろう。
「あの白い像は、別の戦争で恋人と親友を亡くした男が、彼等を生き返らすために罪を犯した成果。男は神を冒涜したとして処刑されたわ」
神さえ冒涜するほど、彼女を愛していたなら、彼女を傷つけずに、今でも関係は続いていたのだろうか。こんな魔法にさえ打ち勝っていただろうか。
誰かに、そう聞かれて、そうだとロンは答えたことがあったが、言った相手は笑って去っていった。
確かに、冷静に考えてみれば、そこまで彼女を愛していなかったかもしれない。愛していたとしても、そこまでの根性をロンは持ち合わせていない。
「あの気味悪い鉢は、昔自分を捨てた親を殺した女の使った凶器。女は自分の罪を悔いる旅に出て、瞳から光を無くしたわ」
この性格になってから、親にも愛想はつかされたが、それでも捨てられることはなかった。どんなに親に文句を言われても、本当に殺したいなんて思わなかった。
子どもを捨てられる親の気持ちも、親を殺せる子どもの気持ちも理解できないが、それはどっちも悲しい気がした。
「他にも、ここにある物の殆どに不幸な逸話があるけど、全部話すのは面倒だからやめとくわ。あら、嫌な顔。自分が一番不幸じゃないと嫌って顔ね。あはは、馬鹿じゃない?」
確かに馬鹿かもしれない。でも、魔法が掛かっているのだから仕方ない。
「不幸の価値を測ることなんて、誰もしないのに、それをしようと言うの? 不幸の価値を測るってことは、そいつの一生を最初から最後まで検分して、なおかつ他者の一生と比較しても、明確な数値として出すことはできないのよ」
ニアの笑みが、怒りの源を刺激する。だが、声を上げるより先にニアが喋る。
「運命って言うでしょ? あれと同じよ。実際は、"有限の"パターンの並びの一つに過ぎない人生が、さも他者とは異なるかのように、運命なんてご大層な名前で呼ぶの」
運命。ロンは、魔法をかけられたのは自分が不幸な運命の下にいるからだと良く叫んだ。決められたものだと。
「例えば、ここに五つの道がある。五つということは数えられるってことね。そしてその一本を通って、あなた達は目的地に着くの。ね、簡単。人生というのもそれと同じ。結局はどれを選ぶかであって、"無限の選択肢"でも"運命"でさえない。無限だの運命だのと騒ぐのは、沢山あるパターンを数え切れない奴等の虚言よ。まぁ、数えられる奴は、そういう無駄なことに時間を割かないものだけど」
もしもニアの言葉通りなら、この人生は、自分で選んだものだということだろうか。だが、魔法をかけられたことは自分で選んだわけじゃない。魔女の方が選んだのだ。
「だって、他人の人生のパターンを数え上げていくだけの長い生を持っていることは"不幸"なのでしょう」
それも、本当は自分が選んだ人生の一つに過ぎないのだろうか。
「誰かがそう言ったわ。だけど、別の誰かは、不老長寿だと言って羨ましがった。結局は、"不幸"かどうかなんて、数値化どころか客観的にすら測れるものじゃない」
じゃあ、ロンは自分で選んだ道を歩いているだけで、不幸かどうかは別問題だというのだろうか。
じゃあ、一体、ロンの不幸だと思う思いはどこから湧いてくるのだろう。
「それをウダウダ言うなんてみっともないと思わない?」
確かに、自分の選んだものに文句をつけるのはかっこ悪いとは思う。
だけど、と言いかえそうとしたが、ニアが涙で白い頬を濡らしたので言葉を呑んだ。ニアは更に怒りで熱くなりながら声を立てて言った。
「それでもあなた達のどちらが不幸なのか調べたいなら、自分達が辿ってきた人生を、産まれるより前から、親の代から、あるいはもっと先から調べてみなさい。そして、人生の最後にどんな人生で、どれだけの不幸があったのかを、お互いに見せ合って確かめれば良い。でも、時として人は、死んでなお汚名を被って更なる不幸を重ねるから、死んだ後のことも記録しないといけないのかしら?」
不幸はそんなに長い時間をかけないとわからないものだっただろうか。
「そんなことできるわけないじゃないか! だいたい、死んだらその後のことなんてわかるわけがないじゃないか!」
「馬鹿馬鹿しい。そんなこと、時間の無駄だ」
ロンの叫び声と鏡の声とが重なり、ロンはハッとして顔を見合わせた。
確かに馬鹿馬鹿しい。そんな時間があるなら、読書に当てていた方がマシだし、ミルクティーを啜っていた方が充実した人生になりそうだ。
そしてロンはふと思い至った。不幸というのは、所詮、そうだと思ったロンのものでしかなく、他人の不幸は憐れむことしかできない。
だから、自分の不幸が一番はっきりと見えるものだから、自分は一番不幸なのだと思うに違いない、と。
「言ったでしょ。みっともないって。測ったところで意味はないんだから。それより問題なのは、性根を入れ替えて、幸福になろうと努力することじゃない? あるいは、幸福だと思えるように努力することかしら」
そう笑われても、ロンにはどうしようもなかった。
不幸だと思わないように、悪いほうに物事を考えないようにしたくても、魔法がそれを勝手にやってくれる。
おかげで、ロンはイライラして、気鬱でどうにかなりそうで、回りに当り散らして友人を無くしてきているのだ。
本当は、昔のように友人達と笑ったり、くだらない話をいっぱいしたいのに。
せめて、この魔法がとけてくれればよい。だが、かけた当の魔女が解けないというのだから仕方がない。
「でも、僕の魔法はかけた魔女でもとけないって……」
「この現状は変えようがない」
思い悩みながら言うと、ニアが微笑んでロンを見た。
「それじゃあこうしましょう。まずはロンちゃん。あなたはその魔法がなくなるなら、どうなってもかまわない?」
問われて考える。どうなってもとは、死んでもという意味だろうか。それだったらお断りだ。
友人の一人と言い争いになった時、死んでしまえば良いと言われて、辛くて自殺も考えたが、それでも死ねなかった。死にたくなかった。
「魔法が解けたら死んじゃいました〜っとかじゃなければ……」
不安そうに聞き返してきたロンに、くっきりとした眉が印象的なニアが微笑む。
「大丈夫。命なんて奪おうと思って簡単に奪えるものじゃないから。それで、あなたはあたしと契約する?」
「解けるなら、勿論だともっ」
拳を握り、強く頷く。彼女のことはもうどうにもならなくても、家族や友人や職場の人間関係が元通りにできるならそれが良い。
急に変わったと言っても信じてもらえなくても、元通りになるためなら頑張ろう。
「そう。それじゃあ、不幸だと思わなくなる魔法をかけてあげる。ただし、副作用付。どんな副作用かはわからないけど、それほどたいしたものじゃないわ」
「それなら契約する」
小さく頷くと、ニアがロンの手を握った。急に手を握られたロンは顔を赤くしてしまう。
女の子相手に顔を赤くして恥ずかしいが、久々に異性に手を握られたのだから仕方ない。
たとえ相手が十代前半の女の子だったとしても、だ。
『<――愚かな魔女の言葉は無に消える、何故なら私が願うから、しかし願いに捧げる生贄は、この男そのものだ――>』
目の前で静かに目を瞑り、またも意味のわからない呪文を唱えるニア。閉じた目蓋から覗くまつ毛の、なんて黒くて凛と長いことだろう。改めて美少女だと認識してしまう。
ふっと目蓋を上げたニアが、そっとロンの腕を引き、その手の甲に小さく口付けた。
これに慌てたロンは勢いよくその手を振り払う。
「これで終わり。ここを出たら効果が出るわ」
「ど、どうもっ」
顔を真っ赤にしたロンは、鏡がどんな目で見ているだろうと思って少し辛かった。
「次は鏡ちゃん。あなたは今の現状だったわね。でも、それは元の世界へ戻ればおのずと変わってくるわ。えぇ、おのずと」
「おのずと……」
「そう、おのずと。それでも少し不安なら、これをあげるわ」
そう言ってニアが渡したのは、長方形の緑の紙だった。
「なんですか、これ?」
鏡は両面をひっくり返してみたが特に何も書かれていない。ただの緑の紙である。
本屋で店員をしていると、紙を見てその質が分かるようになってくるものだが、こんな紙は見たことが無かった。
「自分の見たい夢が見られる枕とか、おまじないってあるじゃない。そういうものの一つよ。ただし、鏡ちゃんだけしか使えないわ。使い方は簡単で、それを身に付けて、眠る前に何が見たいか念じれば良いだけ」
「うわ、なんかそっちの方が凄いものなんじゃないかい?」
赤くなった顔を片手で仰ぎながら訴えるロン。
少なくとも、恥ずかしい思いをしないだけマシに思えた。
「そんなことはないわ。だって、使えるのは鏡ちゃんだけだもの」
「本当に?」
「えぇ」
ニアの言葉にロンは残念な気分になった。なんだったら、ここに居る間に一度ぐらい試させてもらいたいという気持ちもあったからである。
「でも、これが何の役に立つんですか?」
鏡の言葉にニアが笑う。
「例えば、町の外の様子とか、例えば、無くしたものとか」
意味深な笑みに、鏡が更にたずねようとすると、背後でガタリと音がした。
振り返ると、扉が二つ隣り合って壁にはめ込まれている。片方は、ロンの見慣れた扉だ。
「あら、扉が帰ってきたみたい。二人とも、早く出た方が良いわ。扉はいつまでも壁にはめ込まれているわけじゃないから。あ、そうそう、自分の入ってきた方から出なさいね」
なんだって! 折角、魔法の影響がなくなっても帰れなかったら意味がないじゃないか!
ロンは慌てて立ち上がると、扉に向かって駆け出す。
「それじゃあ二人ともさようなら」
背後からニアの声が聞こえた。振り返ると、来た時の苛立ち顔ではなく、とても機嫌がよさそうに見えた。
「ご馳走様でした」
「ありがとうございました」
鏡の言葉に促されて、ロンも感謝の言葉を口にして扉の方へ顔を向ける。
扉の前まで来てから、ロンはふと気が変わって、扉に手をかけたまま鏡を見た。
最初に見た、ぼんやり顔の少年は、少ししっかりしたようだったが、それでも、もしかしたら戦争に巻き込まれないとも限らない。
その時、この少年が、ここで聞いたどんな不幸にも掛からないで居てくれれば良いなと思って、何か良い言葉を捜したが見つからなかった。
でも、口を開いた瞬間、なんとか自分の言いたい気持ちの断片は言えた。
「これで君ともお別れだけど、頑張って。僕ももう少し変わろうと思うからさ」
言われて、鏡もロンの方を見て答える。
「はい。ロンさんも頑張ってください」
これきりだとは思うが、なんだか嬉しくなって、ロンは扉を開けた。
凛とした鈴の音を背に聞きながら外へ出ると、そこは入った時からさほど時間が経っていないように見えた。月の位置も変わっていない。
ふと、背後から声が聞こえた。
「……ロンは馬鹿だな……ミルクティーに惚れてるんだ……」
男の声が聞こえてロンは振り返る。
そこには魔女の店があるだけだったのだが、店の中の声がロンの耳に全て聞こえてくる。
後ろ向きに考える、重苦しい気持ちはなくなったが、その代償として耳が良くなってしまったらしい。
誰かが乱暴に器を置いた音がして、ロンは耳が痛くなった。
慌てて走り出すと、自分の呼吸音が耳の中に反響して、あまりの痛みに耳を両手で塞いだ。
凛と透き通った鈴の音が響き扉が開かれる。
「宅配便っスー」
「おつかれさま」
すっかりお互いに慣れてしまい、特に言い合いもない。唯一の言い合いの燃え草も、今日は、扉を虐めていないので火は立たなかった。
「それで、何かわかった? Que Van The Ealithの件で」
無意識に低くなったニアの声に、扉の外の声も低くなる。
「やっぱり、"狂気"があの子を殺そうとしてるのは間違いないっス。んでもって、とうの"狂気"はこっちに向かってるっスね。危ないっスから、そろそろ非難した方が良いと思うっス」
扉どころか、店全体が風にでも吹かれているようにガタガタ揺れている。
ニアの顔色が変わった。
「そのようね。まるで、この前に店番を頼まれてた時に"狂気"が来た時みたいだわ」
「今回は運が悪い事に、竜人の女の子だったっスからね。だいぶ怒ってるみたいっスよ」
憐れむような扉の外の声に、ニアは蔑むように笑いながら頷く。
「そりゃそうよ。だって、"歪み"と"狂気"は元々は珍しく"対なるもの"なんですもの。完璧に浮気扱いでしょうね」
ニアの言葉が聞こえたのか、非難がましく店の奥から嵐のような"歪み"たる"店主"の声が響く。
「うぅ、考えただけでブルブルしてくるっス。んじゃ、そろそろ行くっスねー」
「わかったわ。色々ありがとう」
「いえいえ、どういたしましてっスー」
扉が閉められたのを見て、慌てて荷物を解き中身を確認したニアは、その箱を店の奥へと投げ込む。闇色の節くれだった何かがその箱を受け取って引き込んだ。
「さて、あたし達も避難しなきゃね」
ニアが、傍らに寄り添った竜と、羊と、鯨の三匹に微笑んで外套を羽織り、羊の背中に跨る。
扉から出ようとして、ニアは羊を止め、一度だけ振り返って笑った。
「"狂気"が帰っても、まだあなただと良いわね? "歪み"」
銀製の栞は、透かし彫りのようで、美しい娘の姿を細い線で表現している。
左右に髪を縛った娘の足元には、踏みにじられた一冊の本があり、そこにだけ赤い釉薬が塗られている。
栞が本に添えられるのは、物語から目を放しても、どこまで見たか知るための道しるべ。
そして本は、不幸な人生さえも文字として未来へと残して行く、永遠の命を持つかのように。ずっと未来まで。
名 前:ロン=ビュンジ
読み仮名:ろん=びゅんじ
年 齢:23
外見年齢:23
性 別:男
種 族:人間
世 界 観:年に一度、ある魔女が誰か一人に魔法をかける。
それが人間界におりた魔女の規則らしい。
それが良い魔法か悪い魔法か、どんな魔法をかけたのかは魔女にも分からない。
彼はその魔法にかかり、激しくマイナス思考になった。
もはやなにかに憑かれているように彼の周りの空気は暗い。
職 業:本屋の従業員
飲 食 店:その魔女が経営しているお店。人気の少ないところにあるが、中はとても明るく、常時最低3人は客がいる。
不思議な雰囲気がただよっていて、ロンはミルクティーが好き。
性 格:マイナス思考以外のなにものでもない。何を考えてるかよくわからない。
不幸要素:そのマイナス思考をどうにかしようと頑張ってくれる友人達もいるが、今のところどうにもならない感じ。
とにかく果てしなくマイナス思考。
備 考:見かけは標準的。ただ周りに漂う空気が異様。
店 主:魔女
第一印象:なんだか近寄りがたい。
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キャラクター提供元 : うらうらら 様
最終更新日 2005/05/06
感 想 同じ時間を共有する二人を別視点から書こうとした回。 鏡バージョンと並べて読むと、ちょっとした違いを楽しめるかも。 この辺りから、物語の中心が客から店主に移ってきます。
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