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当選したのかもわからない政治家の看板の前を横切り、幼児誘拐犯にも見える道路標識のある交差点を進み、謝罪文が張られ完全に閉ざされたシャッターの群れを左右に見ながら進むと、こじんまりとした喫茶店があった。
レンガ造りのような外壁を蔦が多い、周囲の店舗と同様に寂れた感じはあるが、木製のドアに掛けられたプレートには「OPEN」と刻まれ、営業中であることが窺える。
中学生なのか高校生なのか判断し難い黒い学ランの上から、軍のお下がりであるくたびれたコートを羽織った少年は、当然といわんばかりに、手垢で汚れた喫茶店のドアノブを掴み店内へと入った。
外とは違い、暖房の効いた店内に足を踏み入れた瞬間、少年は硬直する。
今まで何度も通ってきた近所の喫茶店のドアベルの音は、もっと低くて素朴なものだった。
そもそも、木製の床には使い古した緑色の足拭きマットが置かれているはずなのだが、眼下には大きなチェス版のようなタイルがはめ込まれており、足拭きマットは真新しいもの特有の感覚がある。
店を間違えてしまったのかと焦りを覚え顔をあげると、少年は絶句した。
彼の記憶が正しければ、近所にある喫茶店は、広さ16畳ぐらいのこじんまりとした店で、床や壁どころか、テーブルや椅子に至るまで、木製のものにこだわった、趣味の良い素朴な店である。
だが、目の前に広がっているのは、軽く50畳は超えそうな広い空間であり、オセロ盤のような白と黒の床の上に置かれているのは、中世ヨーロッパの偉人と共に歴史の図説で登場しそうなアンティーク調の家具ばかりである。
部屋の中央にぽつんと置かれたテーブルには、これでもかというほど長い真っ白なテーブルクロスが敷かれているだけだ。
間違いなく、ここは少年の愛用している喫茶店ではない。
少年は店を間違ったのだと確信し、後ろを振り返ると、更に絶句した。
入ってきたはずの扉がない。
目の前には、少年の美的感覚とはだいぶ離れた壁紙が張られた壁と、長椅子だけが描かれた妙に間の抜けた絵が飾られているだけだ。
「こ、ここは一体…。」
少年が頬をつまもうとすると、背後から声を掛けられた。
「ようこそいらっしゃいませ。」
少年はまたしても驚き振り返る。
声の主は、縦に長い中央のテーブルの一番奥の席に座り、肘を突き手の甲に顎を乗せて笑っている。
二十歳前後だろう、手入れのされた端正な顔は白く透き通り、シャギの入った赤毛から青い瞳が覗いている。
襟の長い白いシャツの上に、ズボンと揃いのチェックのベストを着て、黒いネクタイを締めている。
男とも女ともわからない中世的な雰囲気は、冴えない男子学生然とした少年とは対照的だ。
「どうかしましたか?」
挑発的な言葉に、少年はこれが夢ではないのかと思いながら口を開く。
「ここは、喫茶店イズミじゃありませんよね? どうも間違ってしまったみたいで、その、失礼しました。
できれば出口を教えてもらいたいのですが。」
少年の言葉に、ビジュアル系バンドに出てきても差し支えなさそうな人物がくすりと笑う。
「確かに貴方の知っているお店とは少し違うかもしれませんが、それはさして問題ありません。
出口はちょっと出掛けてますからね。お茶でもしませんか?」
「出口が出掛けてる…?」
少年の顔色が悪くなる。
どうやら頭のおかしい人らしい、と内心思いつつ壁を叩くが、普通の壁であって出口ではなさそうだ。
「ムダな努力をせずに、時間まで少しお話ししましょう。どうせ、喫茶店でお茶をするつもりだったのでしょう? あ、申し送れましたが、私はここで時折いらっしゃるお客様にお茶を入れて暫しの間お話しするのを道楽としております。名前が入用でしたらお好きなようにお呼び下さい。蔦谷 弥くん。」
にこりと微笑むビジュアル顔の言葉に、少年は振り返る。
「貴方はなんなんですか!? どうして僕の名前を知っているんですか!? だいたい、ここはどこなんですか!?」
蔦谷は驚きに目を見開き、テーブルへと足を薦める。
内心、これが民報のドッキリかもしれないとも思ったが、ごくごく平凡な学生をわざわざ驚かすのに、ここまでする番組はなかったはずだ。
「まぁまぁ落ち着いて。出口が戻ってくるまで時間はあります。どうぞ、席に就いてゆっくりされてはいかがですか?」
蔦谷はいぶかしがりながらも、座らなければ話そうとしない相手に根負けして席に就く。
それと入れ替わるように相手は立ち上がり、脇に寄せていたカートを押し蔦谷の脇に立って給仕をする。
「お茶をどうぞ。お菓子も美味しいですよ。」
入れたての紅茶は、いつも喫茶店イズミで飲む一杯2百円の安いものとは全く違う。
三段になったティータイム用の皿には、たっぷりとお菓子やパンが乗せられている。
伸び盛りの男子学生にしてみれば、嬉しい量だ。
しかし、これほど豪華なお茶代を払えるほど、蔦谷の財布は暖かくない。
蔦谷の不満そうな顔から何か察したらしく、相手はにこりと微笑む。
「毒は入っておりませんのでご安心下さい。それに御代も要りませんよ。どうぞお召し上がり下さい。」
その言葉に蔦谷は安堵して、早速目の前の菓子に手を伸ばした、皿へ移して食べ始める。
正直に言うと、両親は共働きなので、空腹を感じると夕飯代わりに近所の喫茶店を利用するのが日課なのだ。
給仕を終えた相手は、カートを押して自身の席にもお茶の支度をすると、静かに座った。
「さて、まずはここの場所についてお話しましょうか。」
雪のように白い陶器のカップを傾けながら、相手が喋り始めたのに合わせて、蔦谷は顔を上げる。
急いで食べたせいか、口元にチョコクリームがついている。
「ここは特に名前もありませんが、あえて言うならば、蔦谷くんの住んでいる世界とは少し異なる場所です。
少なくとも、日の丸の下で君が代を歌うこともなければ、星条旗を掲げることもありません。
そもそも国を作るためのものが、今ここにあるものしかありませんしね。いわゆる異世界という奴です。」
"異世界"の言葉に蔦谷は思い切り噴出す。
「異世界!? そんなもの存在してるわけないじゃないですか!! ドッキリにもほどがあります!!」
「事実ですから。」
「絶対にドッキリですよね? むしろ言い切ってしまう辺りがものすごく怪しい!
わかった、貴方は役者さんでしょ? 顔も良いし、演技もなかなかですけど、脚本がダメだからいまいちですよ。」
蔦谷の言葉に役者さん呼ばわりされた方は、特に顔色を変えることなく笑っている。
「そう思ってくださっても構いません。」
「むっ…。つ、次はそこの竜が動き出すとか、そんな内容なんでしょ?」
開き直ったようにもみえる"役者さん"の姿に困惑しつつも蔦谷はテーブルの中央を指し示す。
真っ白なテーブルクロスの上、蔦谷と"役者さん"の丁度真ん中に竜の置物が置いてある。
古びた青銅製の置物は、西洋風ドラゴンを象った物で、細かな作りから見て動くようには思えない。
だが、大きく広げた翼と、長い首を向け蔦谷を睨むような顔は、今にも襲ってきそうでどことなく恐ろしい。
「この仔は動きませんよ。とても賢い仔ですからね。勝手に動く竜が見たかったのならば残念ですがもうここにはいません。蔦谷くんの時間から見ればもうだいぶ前のことになりますけど、出入り口に掛けてあった絵の中から二匹ほど抜け出しまして、他の者も誘って遠くへ逃げてしまいましたよ。」
蔦谷は振り返り、本来ならば出入り口のあるらしい壁に掛けられた絵を見る。
入ってきた時と同様、家具だけしか描かれていない絵は、どうにも中央の余白が大きすぎて間の抜けた絵に見える。
「捕まえなくて良いんですか?」
この際、お茶のお礼に"役者さん"のよた話に付き合おうかと思い、蔦谷が問いかける。
「あぁ、もともと処分するつもりだったので捕まえるつもりはありませんよ。
ただ、勝手に新しい世界を作ってしまったのはいただけませんでしたがね。」
一瞬、部屋が薄暗くなり、声のトーンも低く聞こえた。
蔦谷は話についていけず、視線を天井へ向けた。
見上げると、ドーム状の天井はとても高く、花びらのように放射線状に伸びる五つの天窓には、どれも暖かそうな日差しが映っているのに、その青色はどれも違うようで、太陽の見えている一枚に限っては今にも雨が降りそうなほど雲が群れている。
「所詮は習作以下のつまらないモノ。どんなに愚かな死を迎えても自業自得です。全く、努力を惜しんで非難に耳を閉ざし逃げるなんて、最悪な竜達でしたよ。」
"役者さん"の言葉に蔦谷の眉間に皺が寄る。
彼には三つ年上の兄がいた。
両親からその才能を買われ、徹底的に教育を受けさせられたが、そのかいあってか日本でも屈指の名門国立大学に現役合格し、今はエリートコースへ向けてキャンパスライフを送っている。
一方、弟である弥には、兄のような才能は何一つ無かった。
どんなに努力しても、兄との差異によってその成果は認められず、来年には大学進学だというのに、高校での三者面談での親の評価は教員よりも厳しく、まるで蔦谷を信用していない。
「自分には才能がないから、これ以上の努力は無駄だとか抜かして出て行ってしまったんですよ。
もっと自由な、自分を生かしてくれる場所を探すのだと言ってね。愚かですね。」
蔦谷の手が震える。
自由にすれば良いと言われ、以前から興味のあった画家という職業を目指し、今の学力で行ける大学を答えた時、理数系の人間である父親は、まさかそんな基礎知識にも満たないようなものを学びにいちいち大学へ行くのかと笑った。
芸術への理解が乏しいとはいえ、画家になりたいという理由を話して更に笑われた。
長期休暇中で実家に帰っていた兄にさえ、どれほど自分が馬鹿なのかを説明されて腹が立ったが、確かに家族の中で一番成績が良くないことは理解しており、何も言い返せなかった。
「本当に最悪ですよね。才能もなく、努力しても結果のでない生き物は。」
"役者さん"の言葉に蔦谷はテーブルを叩き立ち上がる。
「なんでもできる人間には、頑張っても報われない人間のことなんてわからないんだ!!」
大粒の涙を零し、蔦谷が吼える。
親離れできていないと笑われるのが怖くて平然を装ってきたが、本当は寂しかった。
必要とされず、期待もされず、干渉さえもされずに、まるでペット以下のような淡白な家族との関係。
一方で、エリートの家の子だからと、身に覚えの無い非難を受け友達のいない日々。
唯一、まるで自分の弟のように心配してくれる、喫茶店イズミのお姉さんに何度心癒されたかわからない。
今日も、一人ぼっちの夕食が嫌でイズミへとやってきたというのに、そんな場所を壊すように現れたオセロのような空間。
悪い夢だったら覚めて欲しかった。
否、この人生そのものが悪い夢だったのだと言って、イズミのお姉さんが起こしてくれたらどんなに嬉しいだろう。
「わかりませんよ。成功を収めるモノというのは、常にどうすれば努力が報われるのか考え行動していますからね。
ただ闇雲にやったところでは、身につくものも身につきませんし、混乱するだけで実に無駄です。」
ぴしゃりと言い放った言葉に、蔦谷は何も反論できず沈黙した。
長い長い沈黙の後、蔦谷の背後で鈍い音がした。
「おや、出口が戻ったようですね。」
言われて振り返ると、間抜けな絵の飾られていた辺りに、重厚な扉が備え付けられていた。
「でも帰らなくても良いと思いますよ。ここには嫌な勉強もなければ、冷たい親もいませんからね。
寂しいのでしたら、素敵なお嬢さん方を紹介しますよ。例えばあちらなんてどうですか?」
指差された先には、いつから居たのか、雑誌でしかお目にかかれないような美女達が微笑んでいる。
壁の花にしておくには実にもったいない。
「でも、蔦谷さんにとってはこちらの方が宜しいでしょうか?」
"役者さん"が手を叩くと、部屋の奥にある暗いドアから一人の女性が現れた。
「い、イズミのお姉さん!!」
清楚な感じの女性は紛れも泣く喫茶店イズミの女店長だ。
よく見れば、出てきたドアも喫茶店イズミの出入り口そのものである。
驚いている蔦谷の側へ歩み寄ると、女性は蔦谷の頬を自身の身につけているエプロンの袖で拭う。
「うわっ、ちょ、お姉さん何してるんですか!?」
「何って、弥君の顔が汚れてたから拭いただけよ。」
にこりと笑う女性。
本物のイズミの店長も、やはりどこか天然なところがあった。
「ここに居れば、彼女は君だけの"お姉さん"になりますよ。」
一人悠然と席に就き紅茶を啜っていた"役者さん"が口を開く。
「ここは君の世界とは違う場所。故に、ここでなら、君はその人と一緒にいられます。
学校に行く必要もないし、彼女が喫茶店で他の男に笑顔を売ることもありません。良い世界でしょう。」
それは、蔦谷にとってはこの上なく理想的な世界だ。
見上げたイズミの店長は、微笑みながら蔦谷を抱きしめる。
柔らかな胸の膨らみに、蔦谷は顔を赤くした。現実ではありえない。願うだけ愚かな事が、今まさに起きている。
抱き返そうと伸ばした手を、蔦谷は下ろし、女性の腕の中から抜け出した。
「こんな理想的な世界は嬉しいけど、こんなものに縋ってられない。僕は、まだ負け犬じゃない。」
震える声で呟くと、突然目の前から女性が消え去る。
驚いて辺りを見回すと、壁際に立っていた女性達も消えていた。
「ど、どういうこと!?」
「安心してください。彼らは全て幻です。蔦谷くんが現実を選ばなければ、彼等は君にとっての現実になっていたでしょうが。」
くすりと笑う"役者さん"に、蔦谷は怒鳴る。
「悪趣味な手品だね! なんて酷い奴なんだ!」
そう言いながら、蔦谷は決心していた。
家族や進学と言った、乗り越えられずに諦めてきた現実に立ち向かうことを。
「…でも、おかげで決心がつきました。ありがとうございます。」
蔦谷の言葉に、毒気の無い笑みを返す。
「あの、失礼ですが、出口に掛かってる絵もらって良いですか?」
蔦谷が指差した先には、家具だけが描かれた間抜けな絵がある。
「現実に戻っても、今の気持ちを忘れないように、いつか、逃げ出した竜の代わりになる良い竜を描きたいんです。」
その言葉に"役者さん"は小さく頷き、蔦谷の前を通って額縁ごと絵を取り外し、それを蔦谷に手渡す。
「そろそろ何か描かなければと思っていたんですよ。どうぞ、良い"モノ"を描いてください。」
女とも男とも言えない中世的な声は、なんともいえない甘い響きをしているなと思いつつ、蔦谷は絵を大切に受け取る。
「はい。本当に、今日はありがとうございました。」
そう言って蔦谷は扉を開き、その向こうへと踏み出す。背後で、最初に聞いた凛と透き通る鈴の音が響く。
振り返ると、そこは喫茶店イズミで、どこをどう見渡してもいつもの風景だった。
先ほどまで食べていたはずなのに空腹を覚えた蔦谷は、喫茶店イズミの扉を開く。
「お姉さんこんばんは。」
勢いよく入った店内は、やはりいつもの素朴な喫茶店イズミの内装だ。
しかし、そこにはいつもならばありえない光景があった。
「よぉ、ワタル。」
そう言ったのは、蔦谷の兄だ。彼の腕の中には、まるで小さな小鳥のようにイズミの女店長がいる。
「俺たち、今度結納することになったからそのつもりでな。」
「今までも弥君のことは弟みたいに思ってきたけど、これからは本当の姉弟だね。」
イズミの店長が、頬を赤らめて笑う。
心の中で何かが音を立てて壊れた。
凛と透き通った鈴の音が響き扉が開かれる。
「宅配便っスー。ここに置いとくっスねぇ。」
拍子抜けするような声の後、何かが扉の内側へ置かれ、扉はまた閉められた。
「早かったね。」
"役者さん"は機嫌よく荷物を拾い上げると、テーブルの上で首をもたげる竜の置物の側へと歩みながら、
茶色い梱包用紙を開け、中に収められていた絵を取り出す。
「見てよ。蔦谷君の力作だよ。これは素晴らしい。」
物言わぬ竜は、マジマジと絵を見て翼を広げ羽ばたかせる。
「君も気に入ってくれたかい。そうか、そうか。それじゃあ飾ろうね。」
緑の縁をした絵を、今まで飾られていた出入り口ではなく、絵画の並ぶ壁の隅へ飾る。
「よし。良い感じだね。討論する闇の竜と光の竜とはまた別の面白さがあって良いね。
まあ、アレは不毛なだけだったけど、今回はだいぶ実になってる。」
"役者さん"は満足したように何度も頷き、お茶の用意を始める。
「勝利者に乾杯。」
雪より白い陶磁器の器を絵に向かって持ち上げた。
斑に赤く染まった緑の縁の中、かつては二匹の竜が腰掛けていた長椅子の上には、
血にまみれ目蓋を閉ざした女神を抱きかかえて、漆黒の少年竜が座っている。
画面の奥では、困惑と不快を浮かべながら血まみれの青年が首をもたげる。
まるで長い長い悪夢の終わりを告げるように、少年竜は笑い、女神に口付けた。
最終更新日 2005/05/06
感 想 2005年の初めの方で「竜の寄り道」にて投稿した作品。 まだ台詞の最後に句点がついているので恥ずかしい。 背景を書くのが楽しかったようで、無駄に細かいなと思う。
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