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私の名前はタウ。
これは、私が"約束の地"で起きたあの戦以来、どんな風に生きてきたのかの記録だ。
今では"天地分断戦争"と呼ばれる大戦から、もう10年も経ってしまったので、
思い出せないこともあるが、それでも私なりに書き上げるつもりだ。
10年前、三大大国と並び称され、戦争の中心を占めていたセルフヴォラン、パーズドビシャ、プシニーツァが、
傭兵王ノーミル閣下によって統合されてできたのが民主主義共和国ヴェステンメーアだ。
先にも書いたが、この争いを"天地分断戦争"と呼んでいる。
というのも、この時、伝説上の生き物だと思っていた"竜"によって、
世界は、私達の住む"チャース"と竜の世界"ドゥルゴーイ"に分けられたからだ。
その時、私は家族を失った。
父親が人間だった私以外は、皆、竜の世界へ連れて行かれたのだ。
私は目の前で、空へ奪われる家族にしがみつくこともできずに、ただ泣き喚いていた。
当時、まだ、たったの8歳だった。
暫くの間、泣きはらしていたが、それ以上どうにもできないこともよく理解していた私は、
家族を奪われた怒りに燃え、傭兵王ノーミル閣下に復讐すべく、ヴェステンメーアの首都を目指した。
当時はまだ首都は建設中だったため、実際に政をしていたのは元パーズドビシャの王都ドゥーブルだったが。
ともかく、私は、彼を殺してやろうと、王城へ入るべく色々な試みをしたが無駄だった。
子供に、元傭兵の国王を殺すことは不可能なのだと泣いたものだ。
しかし、今思えばそれは国教である"竜神教"の教えによるものだったのかもしれない。
"戦をするべからず。さすれば世界は竜の目覚めと共に滅びるだろう。"
五年間、様々な仕事を転々としながら、私は毎日を過ごしていた。
その頃には、もはや見当違いの復讐を考える余裕もなくなっていた。
太陽が昇るよりも早く置き出して、月が眠った後に眠る日々が続いたからだ。
国が治まり、首都が完成したということもあって、景気が上向きになり始めたせいでもあった。
"約束の地"に作られた"首都"は、人手が足りなく、沢山の労働者が必要だったのだ。
反対に、国主を失ったドゥーブルは衰退を辿り始めた。
私の生活も、厳しくなる仕事とは裏腹に、給金は切り詰められ、喰うに困るようになった。
元々それほど豊かでもない生活が、一層苦しくなり、
復讐を忘れていた私の心に、新たな意味を持って"復讐"という言葉が燃え始めた。
長老竜達と三大大国の国主を失った"約束の地"で、今度こそ、あの暴君を殺してやろうと思い、
私は新たな仕事を求めて真新しい首都へ流れる労働者達に紛れ込んだ。
新しい首都は美しかった。
何もかもが新しく、そして活気に満ちていた。
復讐を忘れるほど、心躍った私が気を緩めた時だった。
全財産の詰まった鞄を奪われたのだ。
当時の私には、役所へ行くという考えも浮かばず、ただただ困ってしまった。
その日暮らしでも良いと、仕事を求めたが、13歳の少年に回ってくる仕事は、
どれも口で言うことができないほどおぞましいものばかりだった。
勿論、私はそのような仕事をしたくなかったので、結局は寒空の下、空腹を抱えてさ迷った。
とうとう、三日目になると、疲労と空腹で動けなくなった。
「ノーミルとかいう、あのクソ野郎を殺すことができなかったな…。」
そう呟きながら、ゆっくりと死んでいく恐怖に涙していた時、声を掛けられた。
やたら背の高い男が、私に声を掛けてきた。
「親はいないのか?」
「竜につれてかれた。」
唐突にそんな事を聞かれたせいかもしれないが、私は久々にその事実を口にした。
もう何年も、そんな事実を誰かに教えたことはなかったのにである。
「生きたいか?」
朦朧とする意識の中で、色々聞かされた気もしたが、聞き取れたのはその言葉だけだった。
考えることもできない頭に代わって、体が答えた、今ではそう思う。
「生きたい。」
「お前の名前は?」
「タウ。」
それだけ答えて、私は意識を失った。
それから数日、私はその男に合わなかった。
というのも、酷く衰弱していた為、医者が面会を許さなかったせいだ。
私は、私を助けた男が何者かはわからなかったが、金持ちに違いないことだけはわかった。
病院に子供を何日も預けておける財力というのは、そんじょそこらの労働者ではないことは確かなのだ。
だから、医者に聞いても教えてくれない、男の素性や名前を色々想像した。
そして、どうして助けられたのかも。
しかし結局よくわからなかった。今でも、よくわからない。当人が話そうとしないからだ。
10日近くが過ぎ、あの男と面会した時、私は卒倒しそうだった。
男が名乗った名前は…ノーミルだった。
私は抑えられない怒りを覚えると同時に、この男が本当にノーミルなのかと疑った。
確かに、元傭兵というだけあって立派な体格だし、大統領であるだけに服装も立派だった。
だが、上に立つ人物としての威厳よりも、子供っぽさの方が強かった。
隣に立つ、お目付け役らしい男女が、私の目からも哀れに思えるほど。
(ちなみに、この時いたのはカールタとカデットで、当時は二人ともそれなりに美しかった。)
私は、どうして私を拾ったのかと、強い口調で問いただすと、彼は答えた。
「道に落ちてたから。」
その答えに、私は怒るのも馬鹿馬鹿しくなったのを今でも覚えている。
本当に、彼はよくわからない!
仕事もなく、今日喰う当てもないので、治療費を払うことができないと告げると、
彼は大笑いした。
「そんなものはいらん。もしも恩返ししたいなら、俺のところに来ないか?」
またも唐突な事を言われて、私は目を丸くした。
実は、彼に名乗られた直後、今までの怒りを怒鳴りつけて、殺してやりたいとまで言ったのである。
それなのに、彼は私に、自分の所で子守をしないかと言ってきたのだ。
私は困惑して、お付の二人を見たが、二人とも諦めたような顔で小さく頷くだけだった。
仕事の内容は、彼が住んでいる、国府の奥の官邸で数人の子供の子守をすることと、
その官邸の家事一般をすることだ。
なんでも、彼の性格と使用人が度々衝突して、すぐに辞めてしまうらしい。
私はその仕事を引き受けることにした。
まだ傭兵王ノーミル閣下への怒りが収まったわけではなかったが、
給料が出て食事と住まいがあるというのは魅力的だった。
それに、敵の懐に忍び込めば、いつかはチャンスもあると思ったのである。
私が相手をすることになったのは、"元・ナム隊"と呼ばれる、彼の直属の部下達の子供達であった。
国府には託児所もあったが、彼が子供達を養子に渡さないならば、
託児所に入れないという我侭を言ったことで、こんな結果になったらしい。
長い長い時間を掛け、時折は拳と拳を交えながら話し合った結果、
養子に渡すことはできないが、仕事で子供達の相手ができない日中だけ、
官邸に預けるということで収まったのだという。
そんな事情のある官邸に住み込みを始めたのは"天地分断戦争"から六年目が過ぎた頃だった。
しょっぱなから4人もの子供の面倒を押し付けられて四苦八苦した。
最初に紹介されたのは、彼の補佐役カデットと軍上層部を仕切るチャコの子供が二人。
長男で垂れ目が特徴の5歳児デルと、長女で頭の左右に作ったおだんごが可愛い3歳児のジェーだ。
デルは一番年上ということで多少威張っていたが、妹思いの良いお兄ちゃんだった。
ジェーは薄倖の美少女と形容したくなる少女で、同い年の子供に比べればとても物静かだった。
後から知ったことだが、彼女の頭の中には母親と同様、
形容しがたい知識の塊が渦巻いており、そのせいで幸福を感じることが難しかったのだ。
次に紹介されたのは、彼の補佐役カールタと、同じく補佐役のケーリーの子供だ。
やんちゃな二歳児ブリヤントは、年上の少年達に喧嘩を吹っかけては泣かされた。女の子として少し問題だと思った。
そして最後に紹介された子供を見て、私は心臓が飛び出るのではないかというほど驚いた。
財務省に勤めるリベルテ・ネゴシアシオンと、"炎の竜"のヴィスヨールイの子供だ。
癖のある髪はこの世界では極々稀な漆黒で、女の子のように頭の高いところで左右に縛っていた。
肌はリベルテのように浅黒く、瞳は炎というよりも血のように赤かった。
何より驚いたのは、その背中に、鴉のような翼を生やしていたことだ。
あからさまに異質な少年は、見かけは三歳児ぐらいだったが、
その場にいた子供の中で一番しっかりとしていたが、人見知りが激しいらしく、母親の影から私を見ていた。
それもこれも、三年も母親の腹の中にいたからだと、当人がリベルテを解して教えてくれた。
ウートラは、言葉が喋れなかった。
そんな極めて得意な子供たちの面倒を見ながら、私は色々な事を知った。
大反逆者として知られている元・プシニーツァ王の腹心ミェースチを、どこかで匿っているという事実だ。
また、そのミェースチを通して、"昼間の月"となった光の竜から助言を受けているのだ。
一方で、彼が妻よりも子供に執着する理由もなんとなくわかった。
クロと呼ぶ竜を失ったことが、とても大きな原因だということも。
あんなに憎んでいた男や、国の上層部の内情を知った私は、いつのまにか怒りを忘れていた。
ただ、この優しい日々が続けば良いとだけ思っていた。
それから一年が経ち、私はリベルテと話をする機会を得た。
というのも、一年が経ち、様々な事に慣れてきたといっても、
ウートラとは上手く接することができなかったからだ。
手話が出来ないことはさして問題ではない。
ウートラもそれは察して、文字や絵で教えてくれる。
当時の私は、文字を習い始めたばかりで、それでもわからないことは沢山あったが。
ともかく、意思疎通という意味ではなく、私にとって問題なのは、彼が"竜"だということだった。
どんなに半分は人間だと言い聞かせようとしても、空を飛ぶ彼を見て、
漆黒の髪の彼を見て、その異質さに"竜"という言葉を思い出してしまうのだ。
"竜"こそ、私から家族を奪い、世界を二つに分けてしまった存在なのだ。
どうしても、他の子供達と同じように接することができなかった。
そんな時、母親であるリベルテがこんな事を語ってくれた。
あたしがウートラの父親、つまり炎の竜のヴィスヨールイと出会ったのはもう七年以上前のことだわ。
なんていうのかしら。とても色々なことが絡まってて、どう話せばいいのかわからないな。
ただ言えることは、彼も私も、お互いに求め合って出会ったわけじゃないってこと。
偶然と悲劇によって結び付けられた仲間だったとしか言い様がないわ。
実際、彼からの求愛を、ずっと断っていたもの。…理想よりも背が低いからって理由で。
だけど、本当は怖かったのかもしれない。竜って存在が。巨木のように大きな生き物が。
でももっと怖いものはこの世にいっぱいあったから考えたりしなかったのね。
世界とか、オゥルカとか、ネゴシアシオンの家のこととか。
あ、オゥルカって言うのは、異界からやって来た黒髪の剣士の事よ。"ブシ道"を貫く立派な人だった。
あの"天地分断戦争"が終った直後に異界へ帰ってしまったから、その後は不明だけどね。
漆黒の瞳と、何者にも屈しない黒耀の瞳の持ち主だったわ。
本当に、私の周りには黒い髪だの黒い瞳がいっぱいいたなぁ。
おっとっと、話が剃れちゃったね。えっと、どこまで話したっけ?
そうそう、この世には怖いことが沢山あるの。それは理不尽で、どうしようもないことばかり。
竜達も、そういう理不尽な運命に左右され、苦しみ続けていたことを私は知った。
人間の行いで、海や大地や風やこの世界が汚されて、竜達は滅ぶ運命にあったの。
だから、最後には愛せたんだと思う。
苦しみを超えて、あたしの元に戻ってきてくれたヴィスを、愛せたんだと思う。
死んでいくヴィスとの一ヶ月の暮らしの中で笑えたんだと思う。
日に日に青ざめて行くヴィスの顔に、おはようのキスができたんだと思うの。
ヴィス…。
リベルテは泣かないように頑張って話してくれたが、最後にはとうとう泣いてしまった。
彼女が伝えたかったことは、たぶん違うことだったと思う。
でも、それを彼女は言葉にできなかったに違いない。
私も、涙して今は亡き夫の名前を繰り返し口にする彼女を見なければ、
その真意に気づきはしなかっただろう。
今でも、彼女が伝えたかったことを、私は言葉にできないが、
ただ、それ以来、私はウートラとも他の子供と同じように接することができるようになった。
それからの二年間は実に平穏だった。
チャコとカデットの間に双子の男の子が生まれて、子守家業は一段と忙しくなったが、
年上のデルと、しっかりもののウートラのおかげでだいぶ楽ができた。
双子の名前はヴォーとアニョーで、家で飼っている大型犬に噛まれること多数だ。
元はチャコとカデットが、子供の遊び相手として飼い始めた犬であるソネットだが、
あまりに散歩する時間が少なく、哀れなほど太ってしまったので、官邸に連れてこられた。
勿論、私に世話をするようにということだ。
犬は嫌いではないが、さすがに子供を6人と犬の面倒では疲れたが、昔の暮らしに比べれば楽だった。
少なくとも、太陽が昇る前に起きなくて済むのだったから。
ちなみに、ソネットの減量の為に私が四苦八苦している姿を見たチャコが、こんなことを言っていた。
「カールタもソネットと一緒に面倒見てもらえばいいのに。」
四年前、病室で見た頃のカールタは、わりと小奇麗な男だったが、
今では愛妻であるケーリーの特製弁当のおかげで、すっかり太ってしまい、ただの中年だ。
しかも、三期目にも当選してしまい、大統領の職もすっかり板についたと自負するナムの、
書類業務を一手に引き受けるため、否、やらされているために、
"元・ナム隊"の中では一番運動量が少なく、元傭兵の精悍さは見て取れなかった。
胃痛と頭頂部へと伸びて行くおでこを気にしていた。
可愛そうな人だと思った。
その頃、影で"海"とか"潮風"という単語を聞くようになりはじめた。
それはナム隊と言っても、傭兵の頃のナム隊が使っていた隠語らしく、
私には暫くそれが何なのかわからなかった。
だが、ある日突然、その言葉の意味が分かった。
一年後、だからこれを書いているつい一ヶ月前ということだが、
建国十周年を祝うということで、国中がお祭り騒ぎになった。
元々、お祭り好きなナムを止めることは叶わず、お忍びで城下町へと遊びに行くことになった。
一応、普通の家族連れの一行を装うことにしたのだが、気持ちが良いほどバレなかった。
ここまでばれない国主というのもどうかと思うほどに。
ちなみに、その時のメンバーは"元・ナム隊"の全員とその子供達全員と、私だ。
(正確に言うとリベルテは"元・ナム隊"ではないらしい。)
つまり、ナムを先頭に13人で行動していたわけである。
しかも、うち子供が6人で、その子供達と一緒に騒いでいる子供な大人も一人いたわけだ。
私や"元・ナム隊"メンバーの苦労はお分かりいただけるだろう。
この時、普段は大人しいウートラも騒いでいた事は驚いた。
翼を隠してはいるが、お祭りのせいもあって、誰も彼を気に止めていなかったからかもしれなかった。
普段は、隠しても隠し切れない翼のせいで、官邸や家の外で遊ぶのは夕暮れ以降だ。
真昼の太陽の下で、沢山の人間に混じって、普通の子供のように笑ったりするのは、きっと初めての経験だったのだ。
それを考慮して、ナムは子供達を誘ったのかもしれない。やはり、よくわからない男である。
一同が祭りを一通り楽しみ、帰りの途に就こうとした瞬間だった、
目の前に広がる広場の中央に設置されたステージで騒ぎが起こった。
ステージの上には、ナムの影武者として式典に出席していた男が、黒装束の胡散臭い連中に刃を突きつけられていた。
驚いて逃げ出そうとした観衆は、広場の出入り口を同じく黒装束を来た連中に阻まれ、立ち往生していた。
彼らの要求は、昔の私に似ていた。
今一度、竜に浚われた世界の半分を取り戻そうと言い、
世界の半分を奪われた原因を作ったノーミルを見せしめに殺すと言った。
阿鼻叫喚の中、私は確かに聞いた。
「"潮風"が届いた。もうすぐ"海"になるな。」
ナムを見上げて、私は驚いた。今だ思い出す度に震えてくる。
彼は笑っていた。
それも、酷く邪悪で、怒っているような悲しんでいるような、毒の強い笑いだった。
彼が目の前の舞台へ駆け上がり、黒装束に素手で立ち向かって行くと、チャコやカデットも加勢しに走った。
ケーリーやカールタ、リベルテと私は子供達を守ることになった。
見る見るうちに黒装束が気絶していく中、ナムの影武者が殺されそうになった。
いくら影武者でも、観衆にとってはそれが"ノーミル"その人である。
もしも、それが影武者とバレれば国の信用問題に関わる。
それに、この影武者ほどノーミルに似た男はいなかった。代えはいない。
誰も間に合わないと思った瞬間、真っ黒な影が空へ上がった。
黒装束も影武者も、誰もが何かと疑って空を見上げた。
瞬間、太陽を背に急降下してきた者に、黒装束は殴られ、影武者は一命をとりとめた。
しかし、誰もがそれを喜ぶことはできなかった。
ステージの上には、鴉の羽を背負った少年。
この世に唯一残された竜の子供。
決して、存在していると知られてはならない子供だ。
誰かが叫んだ。
「竜だ!! 捕まえろ!!」
ウートラは慌てて空へ逃げ、もう、戻ってこなかった。
この悲劇以来、リベルテはすっかり塞ぎこんでしまった。
彼はどこへ行ったのか?
それ以上に、"海"…戦争が近づいている。
あれほど、戦をすることが危険なのだと、竜神教が唱えていたというのにである。
10年は、人の思いを変えるには十分な時間ではなかったのかもしれないし、
反対に、人に凄惨な記憶を忘れさせるには十分な時間だったのかもしれない。
今、元・プシニーツァ国王の従兄弟達が、国を乗っ取ろうと、戦争の準備をしている。
10年でやっと国が安定しはじめたというのに、また戦いが始まろうとしている。
もしも炎の竜のヴィスヨールイが伝えた事が本当だというならば、
この世界は、本当に滅んでしまうのだろうか。
私にはわからない。
誰か答えてくれ。
最後の方は悲観に満ちた文章で締めくくられた日記とも言えなくもない代物を閉じる。
「…。」
タウの書記と書かれた、赤い背表紙の冊子を机に置くと、青年は小さく溜息を吐いた。
綿雲のように柔らかそうな白髪は長く、後ろで太い三つ網にしている。
深刻そうに瞬く瞳は若葉の頃を思わせる緑色で、赤い表紙を凝視している。
やたら裾のヒラヒラした黒い文官服をひっぱられるのを感じて、青年は視線を下げる。
「自分にはどうにもできない。」
青年の答えに、悲しそうにウートラは俯いた。
あの日、行方を晦ましたウートラは、空の境界線を越えて、竜の世界"ドゥルゴーイ"へ辿り着いた。
そこで、父親の親友であり風の長老竜を勤めるプレッツリヒに出会い、
戦争が起きないようにしてほしいと懇願し、なんとか"チャース"まで連れてきたのだ。
詳しい説明を求められ、どうしたものかと思いさ迷っていると、
ヴェステンメーアの官邸でタウの書記を発見したのである。
大まかに、この10年間の流れは分かったが、人間同士の戦争をどうにかする方法なぞわかるはずもない。
「お手上げだ。後はもう"昼の月"の裁量に任せよう。」
プレッツリヒの言葉に大きく首を横に振るウートラ。
ウートラにとって、この世は苦悩と暗雲によって出来ている。
大好きな太陽を思い切り浴びて飛ぶことも出来なければ、
大好きな母親に思い切り愛していると叫ぶことも出来ない。
この身と、この世界を呪うことさえあった。時には顔を見た子もない父親さえも。
だが、それでもこの世界に生まれたことを良かったと思っている。
どれほどの苦痛の先に幸福があるのか、ウートラにはまだわからないが、
卵の中で感じていた閉塞的な孤独はもう無い。
あそこから解き放ったのもまた、この世界なのである。
だからこそ、滅びを黙って見ているわけにはいかない。
ウートラとプレッツリヒが互いに硬直していると、不意に扉が開いた。
「誰かいるんですか?」
少年とも青年ともつかない男が、目を擦りながら入ってくる。
赤茶の髪から覗く瞳は、青と緑で、左右の色が違う。
背は高くも低くも無く平均的であり、その身を包むのはクリーム色のパジャマだ。
「…ウートラ?」
パジャマ姿の男が硬直すると、プレッツリヒが慌てて窓を開ける。
「行くぞ、ウートラ!」
ウートラを引っつかみ、プレッツリヒは窓の外へ飛び出し、空へ舞い上がる。
遠ざかる大地で、タウが繰り返しウートラの名前を呼んだ。
プレッツリヒとウートラは、近くの森の木にとまると、上がった呼吸を整えた。
"チャース"で竜の力を使うのはとても苦労するのだ。
というのも、竜を支える要素の殆どが竜の世界"ドゥルゴーイ"へ移ってしまった為である。
ウートラの説得に答え、"チャース"へやって来たプレッツリヒだが、
彼らがこちらへ来るために多くの竜の力を必要としたことからも窺えるだろう。
さすがに人間相手に負けるとは思えないが、10年前のように何百人もの兵士を相手できるとは思えない。
だからこそ、逃げたのだ。
「これからどうする?」
呼吸を整えたプレッツリヒが問うと、ウートラは"わからない"と答えた。
二人が途方に暮れていると、夜空から闇が落ちてきた。
闇は二人の目の前で制止すると、人の形をとって木の上に立つ。
「闇の竜。何故、ここに?」
プレッツリヒが睨みつけると、10歳前後と言った感じの少年が笑った。
「ジェラーニヤも、人間どもの争いに困惑してるからだよ。」
それ以上の答えは得られないだろうと思ったプレッツリヒは、漆黒色の少年に目的を言うよう促す。
「簡単な事だよ。昼の月の真似をすれば良いのさ。」
プレッツリヒとウートラは顔を見合わせた。
それから三日後、プレッツリヒと小さな闇の竜は、竜の世界"ドゥルゴーイ"へと戻った。
世界は危機を脱した。
どうやって脱したのか、ここで語れば笑い話になるだろう。
だが、あえて語るとするならば、三匹の竜は"昼の月をでっちあげた"のである。
簡単な事だ。
闇の竜が真昼に、空を夜空色に変え、プレッツリヒが昼の月の声色を真似るのである。
これだけで効果覿面だったのだが、もう一つだけ猿芝居を打つことにした。
プレッツリヒはこう付け足したのである。
「人が竜の戒めを忘れぬために竜の血をチャースへ残す。
だが、それは戒めの為であって、恐怖の為でも、支配の為でもないことを心得よ。」
こうして、ウートラはその存在を世界に知らしめた。
それは、もはや普通の子供でいられないことを示したが、
同時に、竜の力を悪用してはならないという戒めとともに安全を約束されたのである。
彼は喜んで母の胸に戻った。
一ヶ月ぶりに見た母の顔はやつれていた。
乱れた髪の間から覗く右耳は、半分から上が削ぎ落とされ、過ぎ去りし日々を痛ましく語る。
ウートラは思う。
過去とは凄惨な傷跡を残す、そういうものなのだろう。
今とは、超えることが不可能とさえ思える絶望の中にあるのだろう。
だが、確かにこれらの先に幸福が待っているのだろう、と。
そして今日もまた、タウはウートラや他の子供たちと、国府の奥にある官邸で、
犬のソネットの面倒も見つつ、今という幸福な時間を過ごしている。
また壊れることがないようにと、鴉の翼を見つめつつ願いながら。
最終更新日 2007/01/13
感 想 ウートラ、プレッツリヒは大きなキーワードになります。
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