ある世界の物語

36

 

囁き声が遠くへこだまする 風の悪戯かやまびこのまやかしか
愛らしい響きの中に聞こえるのは悲鳴と怒りと悪意
連れ去られたのは誰だろう 鳥かごは切なげに地面を転がる
行方知れずの鳥を連れ去ったのは いつかのやまびこ


「リベルテは良くやってるよ。まったく、私も手放しで拍手したくなる。」
風の長老竜が鼻につく笑みを浮かべる。
今日のコーディネートは、漆黒の瞳を持ち長い闇色の髪を三つ網にした青年の姿だ。
服装や髪型は全く違うが、ジェラーニヤに良く似た顔である。
「そのわりには、まだ不満があるようじゃない?」
夜の闇にひっそりと浮かぶ銀の髪と、湖畔よりも鮮やかなブルーの瞳が美しい、女神姿のラスヴェータが眉根を潜める。
クーリツアに内緒で、風の長老竜と木の上での座談会をしているから機嫌が悪いのか、
風の長老竜の姿が、大昔に食べてしまった相手であるから機嫌が悪いのかは判断し難い。
「光の竜もわかるだろう? リベルテは村や町の説得をうまい事やってくれているが、
 それは逆を言えば戦争を沈めようとしていることでもある。
 これでは、貴女の計画通りには世界が混乱しないんじゃないかと心配でね。」
風の長老竜が控えめな笑みを返す。
ラスは、こういう奥歯に物が詰まったような言い方をする風の長老竜が嫌いだ。
まるで自分は何事にも関係なく、むしろ心から物事を案じているという風な態度が腹立たしい。
世界中回っても、これほど自己中心的な癖に自分では手を下そうとしない竜は、この男以外いないだろう。
「確かに、あたしの計画通りにはいかなくなるわね。これ以上、予期せぬ展開は起きてほしくはないのだけど。」
風の長老竜の態度は腹が立つが、彼がこうしてその場の光景を伝えてくる事は助かる。
いくら心の断片を感じて先回りをできると言っても、世界中に散らばる無数の心の声を全部拾うことなど到底無理だからだ。
そして、操る事も。
「そういえば、貴女はプシニーツァに人形を置いてきたはずだが…あれはどうなったんだい? まだ操っているのかい?」
光の竜が思っているほどには風の長老竜も全てを知っているわけではない。
風は上空を音より早く駆けることさえできるが、決して同じ時に別々の場所へと存在することはできない。
現状では、季節風に紛れることができなければ地上へと迂闊に近寄ることもままならない。
感の良い精霊が、他の長老竜に報告しないとも限らないからだ。
そうなれば、規則批判を指摘され、最悪の場合重い処罰が下される。
そういうわけで、ここの所は季節風の強いパーズドビシャ国とセルフヴォラン国ばかり吹いているのだ。
「えぇ、人間はおバカさんだから、あたしじゃない事に気付きもしないから放ってあるの。
 願われた助言には人形を介してあたしが答えてるわけだし、身代わりにしては上々でしょ。」
ラスとクーリツアの身代わりにおいてきた二人の人間は、今や己の意志で動くことはない。
普段は人間らしく暮らしていても実に無口で、必要とあればラスが意識に介在し口を開くだけである。
「そうなると、君はプシニーツァとパーズドビシャを手に入れたと言っても良いわけだ?
 少なくとも、ある程度自由に操れる位置にいるという意味で。」
指摘を受けたラスは風の竜を睨み付ける。
「それが?」
「ここで提案なんだが、パーズドビシャを手に入れたら、
プシニーツァ側からセルフヴォラン国とパーズドビシャにある申し入れをして貰いたい。」
「はぃ?」
「劣勢となったプシニーツァ王に、こう言わせるんだ。
 "古き伝承に法って、我ら三国の王はこの戦乱を収める為に自らの命を賭けよう。"」
ラスの顔色が変わる。
人間の世界に疎かった彼女も、ここ数ヶ月で様々な知識を得た。
特に、三大大国の歴史は彼女の計画上、実に重要な情報である。
もともとセルフヴォラン、パーズドビシャ、プシニーツァの三国は一つの国であったが、
その大国を治めていた男が死んだ時、長い戦いの末に国が三つに分かれたのである。
国を三つに分けことに抵抗はあったが、長い戦乱で疲弊した国が他国に侵略されない為には、当時それが一番の解決策だった。
そこで各国の王となった三人は、国同士の土地取り合戦で国が疲弊しないよう一つの誓いを立てた。
「"汝、三国の土地を侵すならば、汝と我と友によって、領民を苦しめぬ一騎打ちを果たそうぞ。"
 今どき、あんな妄信覚えてる王なんていないけどね。」
ラスの言葉に風の長老竜が頷く。
「私はその場に居合わせたからよく覚えている。あれは妄信ではない。
"汝"はセルフヴォラン、"我"はプシニーツァ、"友"はパーズドビシャ。
ま、これもだいぶ意訳されてはいるが、ようするに、他の二国のいずれかに侵攻するならば、
 その国の国王と隣の国の国王も合わせて、三人で決着をつけましょうということだね。
 当時のプシニーツァ王はよく頭が回り、賢明な人物だったが、今は違うのが切ない。
 セルフヴォランは昔から強欲だったが、磨きが掛かった。実に業が深い。」
風の長老竜が腹を抱えて笑い出す。
彼もまた長い時間を生きてきた。人間達の時代の節目にも居合わせることは良くあった。
だからこそ、人間の愚かしい末路を見て笑える。
何十年、時には何百年も後へと繋がる破滅の物語を、結末まで見届けることこそが彼の楽しみだ。
だからといって、ヴィスほど地上や人間に興味があるわけでもない。
彼の興味はもっと果てしなく、吹き歩けるこの世界だけでは飽き足らない。
「悪趣味。」
「悪趣味で良いよ。言われなれてるから。」
風の長老竜が笑い涙を擦り、ラスを見つめる。
そして彼女の結末はどうなるんだろう?
始まりはあまりにも過酷で判然としないが、それでも彼女の結末にも惹かれる。
業が深いのは私に備わる、際限無く"みたい"と思う欲望かな。
「もうすぐパーズドビシャは、しがない傭兵に奪われる。それまでにリベルテをもうちょっと鍛えておくかな。」
風の長老竜が立ち上がったのを見て、ラスは彼の服の裾を引っ張る。
「ちょいまち、あたしはプシニーツァ王の件は何も答えてないわよ。」
なんでも自分の思い通りにいくと思ったら大間違いだ。そう叫びたいという衝動に駆られる。
「でも、君はやる破目になるよ。民衆の力を嘗めてもらっちゃ困る。」
ラスの手を振りほどき、風の長老竜は枝の上から飛び降りる。
曇った夜空の下を、突風となって駆けていった。


セルフヴォラン国アターカ隊のキャンプ地で、リベルテが熱心に何かをしている。
「何してるの? リベルテ。」
宵闇に溶ける黒髪をなびかせて、ヴィスがリベルテの隣に座る。
「うー、ちょっとねぇ!」
なにやら怪しげな物を根気よく練り上げている最中だ。
ぱっと見た感じでは、パン生地のように弾力がある癖に、妙に表面がテカテカしており、色は白濁とした緑色。
「あ、そっか、アターカの火傷の薬だね?」
ヴィスが使われなかった材料の葉っぱを手にとって見る。
「うん、あれだけ酷いと火傷痕はどうにもならないけど、腕を腐らせて使い物にならなくするのは忍びないでしょ。」
少し前に起きた戦闘で、アターカは左腕を火傷した。
否、アターカ以外にも火傷をしたものはいる。しかし、その大半が死んだ。
おかげでリベルテの作る火傷薬で間に合っていると言っても良い。
喜ぶべきか悲しむべきか悩むのは、全てが終わった後で良いだろう。
「ボクは火傷したことないからわからないけど、火傷ってそんなに怖いの?」
リベルテは怒ろうと思って、やめた。
どこからみても人間の男子にしか見えないヴィスだが、実際は炎の竜だ。
炎の竜が火傷で死んだら、これはこれでちょっと笑い話かもしれない。
「火傷した所は皮膚が死んじゃうの。ちゃんと治療しないと、そこから下の皮膚も腐ってきちゃうの。
 もっと悪いのは…全身火傷しちゃった人や、火を吸って体の中が焼けちゃった人。
 そうなると助からない。」
世の中には口にして苦い言葉がある。
助けられなかった命が目の前にあった。じわりじわりと痛みと共に死んだ人がいた。
助からないとわかっている人に、何ができるのかリベルテにはわからない。
「そっかぁ。でも、こうやってアターカや他の人の為にお薬を作ってるんだもの、リベルテって優しいね。」
ヴィスが微笑んでリベルテの肩をそっと抱きしめる。
「優しくしても何も良いことないよ?」
リベルテは赤面しながらも減らず口を叩く。
実際、自分にできることはほとんどないと悟っていただけに、痛烈な言葉だ。
「そんなことないよ。例えばホッペにちゅー……」
「リベルテ、薬はできたかな? ちょっと痛みが酷くて早く欲しいんだが。」
ヴィスの甘ったるい声を遮って、アターカがリベルテの前に立つ。
リベルテの赤面振りと、ヴィスの恨めしそうな顔を交互に見ながらニヤリと笑う。
「ほら、早く薬をくれれば、お邪魔虫は退散するぞ?」
「アターカ! 他人事だからってからかわないでよ!!」
リベルテがヴィスを突き放し、薬を瓶に詰め込む。
突き飛ばされたヴィスは、いじけて地面に横たわっている。
その様子にアターカは哀れむような視線を向けて呟く。
「女々しい芸が増えたな。」
リベルテが俯いて肩を震わす。ツボにはまったらしい。
言われたヴィスの方は完全に不貞寝してしまった。
「ボクもうおっきしないっ!」


流れる雲の狭間に見え隠れする月は、故郷の月よりもかなり大きいくせに、
凍えるような暗く青いレモン色で、まるで大きな瞳のように地上を見据えているように思えた。
「好かないな。」
望郷の念が強いからではなく、己の中に渦巻いていた邪悪な気配が薄れて、この世界の異質さに気を配れるようになったからだ。
よく考えれば、この世界はとても奇妙である。
竜によって自然の流れが管理されているというならば、竜は神のような存在ということになる。
実際、巨大な太陽を打ち上げているのは炎の竜の長老竜だし、夜の星々を運行しているのは闇の竜だと聞く。
地平線に沈んだ太陽を地の竜が拾ってマグマの川へ投げ入れるのだとも聞く。
たぶん、風の竜や水の竜、今はもう最後の一匹になったという光の竜も、世界の事象に関わっているのだろう。
だが、そこまで徹底した態度で臨まなければ、太陽の昇らない世界というのはどうだろう。
脆すぎるのではないか。
「この世界は知れば知るほど奇妙だ。」
ふと、雲が切れ、月光が凰火を照らし出す。突然、凰火の胸の中で闇が踊った。
月光がまるで闇の鎖のように、邪悪さに汚れてくような感覚に悲鳴をあげ、光から逃れる。
鼓動が高鳴り、全身から脂汗が流れ出す。
何があった!? 一体何故!? 何故、月光を浴びて?
月が雲に隠れたのを見計らって、空を見上げる。
故郷の空はどこまでも続き、向上心によって描かれているように見えたが、この世界の空は違う。
高さがあるだけで、閉塞的だ。むしろ、天井が迫ってくるのに似た息苦しさ。
特に、よく澄んだ夜空は闇色の中に強烈な圧迫感がある。
「この世界は…巨大な箱庭なのか?」
口にした言葉に、恐怖した。
もしもそうならば、一体誰が何のために作った箱庭なのだろう。竜ではないはずだ。
どんな生き物もわざわざ自分達を苦しめるような事はしないだろう。
考えれば考えるほど、この世界が薄気味悪い牢獄のように感じられる。
長いこと空を見上げていたが、恐ろしい考えを続けるのに辟易して、眠ることにした。


翌朝、少し起きるのが遅かったアターカは、隣に寝ているはずのリベルテがいないことに気付いて驚いた。
左腕全体が火傷によって膿んでいる今、一人で包帯を取り替えることができず、朝はいつもリベルテにやってもらっていた。
それなのに、頼みの相手がいないとなれば、多少困ってしまうのも当然である。
「もう起きたのかな?」
足元に丁寧に畳まれた寝袋を見る。しかし、何やら釈然としない。
どうして寝袋が畳まれたのを隣にいて気付かなかったのか。
そもそも、昨晩アターカが寝る前にリベルテはテントに戻っていなかった。
「も、もしや…ヴィスと?」
他人事ながら、ちょっと気恥ずかしくなる。これは無理に呼ぶのも悪い。
そう思ったアターカは腹心を呼んで包帯の取替えを手伝ってもらった。
包帯を取替え終わり、やっと落ち着いたところで、リベルテが戻らないことがまた気になりだした。
いくら好きな男と一緒だったとしても、寝袋や荷物をそのまま置き去りにして戻ってこないのはおかしい。
そう言えば、薬を作るための道具以外は全部置き去りだ。
何故、あえて薬を作るための道具は持っていったままなのだろう。戻せば済むことだろうに。
アターカが、リベルテの荷物を見ながら思い悩んでいると、テントの前に誰かがやってきた。
「アターカ! リベルテいる!?」
ヴィスが息を切らして、テントの幕を上げる。
「へ? 昨夜はお前と一緒だったんだろう?」
「違うよ! ボクは…結局そのまま不貞寝してたし…。」
「をいをい。」
アターカは呆れた顔をしながらも、ヴィスの様子を観察した。
余裕の無い顔色、深刻そうに寄せられた眉根、何を言うべきか迷ってパクパク動くだけの口。
「昨晩、薬を貰ってからリベルテには会っていない。リベルテはどこにいる?」
「それじゃ本当に連れてかれたの!?」
ヴィスが絶叫して頭を両手で鷲づかみ振り回す。
「連れてかれた!?」
「あの方が、リベルテをちょっと修行に出したよとか言ってたんだ!!
 まさかそこまでやるとは思わなかったけど、やっぱりやったのかよあの野郎!! マジで切れた!! いっつもフザケくさってぇ!!」
ヴィスの口からなおも悪態が繰り出されるのを見ながら、アターカはここまで嫌われる相手に興味を持った。
"あの方"と言うのだから、たぶんヴィスよりも身分が高いのだろう。
以前、ヴィスは祖母のことを"お祖母様"と言った。そして、彼女の仲間の事も敬うように言った。
もしかしたら、今回の"あの方"はヴィスの"お祖母様"の知人なのかもしれない。
「一体、誰なんだ? そんな酷い奴は!」
怒っている相手に、同じぐらいの勢いで聞くと口を滑らすことがある。
我も忘れるほど怒っているときは特に。
「リベルテの一番上の兄さんの兄さんだよ!! あの卑怯者!! 狡猾野郎!!」
怒っていても、核心は言わないのか。
アターカは小さく悔しがりながらも、妙な言い回しに気付く。
"兄さんの兄さん"。リベルテの兄といってしまえば終わりではないのか?
「リベルテの兄ではないのか?」
「あの方と兄弟なのは、リベルテの兄さんだけだ!!リベルテは違う!!!
ってか、リベルテがあんな超超超性格の悪いおっさんの妹だったら泣く!!!!」
そう口にした瞬間、ヴィスは肩を叩かれた。
忌々しげに振り向いた瞬間、人差し指がヴィスの頬に深く刺さる。
「はは、ひっかかった。」
あっけらかんと笑う男を、ヴィスはあまり知らない。が、その中身はよく知っている。
慌てて逃げ出そうとしたが襟首をつかまれて首が絞まった。
「誰が"超超超性格の悪いおっさん"なのかな? ヴィスヨールイ。」
「い、いらっしゃったんですか?」
ヴィスの頬がひきつる。
男は実ににこやかだが、目が笑っていないし、怒気が背後で燃え滾っている。
男が口を開こうとした瞬間、アターカが怒鳴った。
「何故貴様がここにいる!!」
ヴィスは驚いてアターカと男を交互に見る。
(まさか、アターカが風の長老竜と面識があるとは思えない! ってことは、またもあの悪趣味さで選んだな…。)
男がにこりと笑う。
「貴女とはあまり面識がないのですが、私はそんなに怒鳴られるようなことをしましたか?」
さわやかに笑う男の姿に、アターカが気持ち悪いものを見たかのように引き下がる。
「どうして、そんな恐ろしい物を見るような目で見るのですか?
 貴女のような美しい方には、春風が囁くような優しく力強い笑みを見せてもらいたいのに。」
「うぎゃー! やめろ!! きもい!!」
精神的苦痛に悲鳴を上げるアターカ。
気持ちは察する。
歯の浮くような台詞を並べ立てる人物が、過去に遺恨のある男ノーミルこと傭兵ナムであれば仕方ない。
少なくとも、アターカはノーミルがこんな言葉遣いをできるような奴ではないことは知っているし、
むしろ一生懸命謙譲語を使おうとしてしくじったのも覚えている。
だからこそ、剛健で粗雑なイメージと正反対の行動を取られて、精神的苦痛を受けたのだ。合掌。
「誰なんですか? その人。」
ヴィスがおずおずと聞くと、別の所から声が上がった。
「ノーミル!! 貴様、何故ここにいる!!」
アターカの腹心にして腰ぎんちゃく、結局名前だって出してもらえない脇役君が激怒して走ってきた。
手には抜き身の剣。間違いなく斬るつもりだ。
「ノーミル…っていうと、今話題のナム隊隊長。そりゃ、怒られますよ…。」
ヴィスが呆れ顔で風の長老竜を見上げる。
「はは、良い趣味だろう? 今のところ、私が人間に化けた時は、相手が一番気にしている人物に化けるようにしているんだ。」
楽しそうに笑う風の長老竜に、ヴィスは心の底から叫んだ。
(あんた、悪趣味にも程があるよ!)
二人がほのぼのと会話している間に、腹心が迫る。
「あの、この方はノーミルとかいう人間じゃなくてですね…」
「煩い!! アターカ様の敵め!!」
ヴィスが擁護する前に、腹心の剣が風の長老竜の腹へ突き立てられる。
逃げられないと思った瞬間、軽い感触と共に体が横へ傾き、地面に倒れ付した。
本人は気付かなかっただろうが、風の長老竜がそっと彼の周りの空気を奪い去ったのである。
興奮した頭よりも先に、体がドクターストップをかけて倒れたのだ。
燃え草の無い場所に火は立たないし、酸素の無い場所で人間は活動できないわけである。
「全く、危ないなぁ。他者の話はちゃんと聞くべきだよ?」
風の長老竜はそう嗜めながらも、攻撃できないように背中の上に乗る。
アターカが呆然としているのを見つけた風の長老竜は、にこりと微笑む。
「私の名前はヴィント。残念ながらノーミルとは違う者だ。
 おしゃべりなヴィスヨールイが言ったとおり、私の弟はリベルテの一番上の兄に当たる。
 そこで、彼女には立派な女性になってほしくてね、少しばかり修行してもらうことにした。」
首根っこを掴まれたままのヴィスが「ヴィントって、そんな今更な名前だよね。」と呟く。
それを小耳に挟んだ風の長老竜ヴィントが、ヴィスの首をそれとはわからぬように締めた。
「一寸待て、意味がわからないんだが。ノーミルとは違うのはわかったが、他が不明だ。
というか、立派な女性が修行と結びつくのはどういう理論なんだ!」
完全にパニック状態に陥ったアターカが絶叫する。
「まぁ、言ってもわからないだろうし、教える気もないから気にしなくて良いよ。」
「おい。」
腹立たしげにヴィントを睨み付けるが、ヴィントは笑ったままでヴィスを放そうともしない。
「というわけで、リベルテの荷物を渡してもらえないかな。
 リベルテだけ連れて行ったから、着替えがなくて困ってるんだよ。」
「だから、どこに、どうして、どうやって連れて行ったんだ!!」
「ふぅ、不毛だね。」
「どっちがだ。」
聞き分けが無いといわんばかりに顔を左右に振るヴィントに、アターカが腹を立てる。
「ともかく、荷物を渡してもらいたい。」
「嫌だと言ったら?」
睨みあう二人の間には、いたたまれない顔のヴィス。そして足元には気を失っている腹心。
他の兵士達は今までの経験から係わり合いにならないほうが良いと判断し、周囲にはいない。
長い沈黙の後、風の長老竜が口を開く。
「リベルテを返さない。」
意外な言葉にアターカは鼻で笑う。ヴィスが本気で睨み付けてきたが、無視の方向だ。
「ふっ、そんな脅し…」
「良いんだね。火傷で大変な部下に痛い思いさせっぱなしで良いんだね?」
「…。」
瞬間、アターカの顔から血の気が失せる。
薬は昨晩新しく作ってもらったから何日かは持つだろう。しかし、その後はどうだ。
部下の中には、アターカ以上に火傷を負って、薬のおかげでなんとか動けるという者もいる。
他の部下だって、アターカほどではなくともかなりの重症であることに変わりない。
放っておくことはできないし、だからといってリベルテの作る薬の配合はわからない。
あれほど効く火傷の薬をどこかで手に入れようとしたら、懐に余裕もない。
「それに、ただで貰おうというわけじゃない。これでも弟からお小遣い程度にお金もせびってきたしね。」
「…。」
風の長老竜が皮の袋を開いてみせる。中は金貨が詰まっており、今のアターカ隊の財布よりも価値がありそうだ。
ちなみに、アターカ隊の財布を持っているのはアターカだが、管理しているのはリベルテである。
「別に嫌なら良いんだ。リベルテも荷物がないからって酷く苦労するとは思えないし。他の事で忙しくって。」
最後の方が少し意味深だったので、ヴィスがどこに連れて行ったのかと勘繰るような視線を向ける。
しかし、風の長老竜は微笑むばかりだ。
「ちっ。そこで一寸待ってろ。」
悩みぬいた末、テントへ戻るアターカ。
「物分りが良くて嬉しいよ。」
風の長老竜が嬉しそうに頷く。
「せこいですよー。」
「はっはっは。世の中、人の弱みに付け込まなきゃ楽しくないだろう?」
(やっぱり確信犯かよ。マジ性格悪い!)
ヴィスが心の中で非難した。
これ以上生傷は作りたくなかったからではなく、息が苦しいほど首を絞められたせいだ。
暫くしてアターカがテントの中から顔を出す。
「ほら、リベルテの荷物だ。」
何が入っているのかよくわからない大きい鞄の上から寝袋が飛び出ている。
ヴィスは「入れるの下手だね」と言ったので、アターカに睨まれた。
「ありがとう。」
荷物を受け取った風の長老竜はにこやか笑って荷物を担ぐ。
名残惜しそうにヴィスの首を絞めながら。
「とりあえず、今回は2,3日ぐらいで済むと思うから安心していいよ。」
「安心できません! ボクも連れてってください!!」
「駄目。これ以上余計なことを言うなら、容赦しないよ? 若造。」
ヴィスはその場に硬直した。
顔は笑っているが目は笑っていない。風が岩を抉るように鋭く容赦ない。
「うぅ…。」
蛇に睨まれた蛙状態のヴィスを横目にアターカの方へ向き直る。
「じゃあね。アターカ君。」
重たい荷物を背負っているはずなのに、実に身軽に森の中へ姿を消す。もはや追うのは無理そうだ。
「あれもヴィスと同類で、人間ではないのか?」
その言葉にヴィスが首を振る。
「人間じゃないなら、ボク等は何?」
答えられない問いはお互い様だといわんばかりの言葉に、アターカは怒鳴らなかった。
ただ、髪を乱す季節風からテントを守るように、布を取り外しにかかった。



最終更新日 2007/01/13
感    想 ヴィント。ドイツ語で風という意味です。